歴史との出会い

 私は神学校在学中に日本キリスト教史を専攻した。多くの先輩や友人の専攻が聖書学(旧約、新約)や教義学などであった中で、私は少数派だった。図書室に並べられている先輩たちの卒業論文を見ても、日本キリスト教史に関するものはほんとうに数えるほどだった記憶がある。私の専攻分野でいえば歴史神学ということになるわけだが、一般的にはその主要分野は古代教会史や宗教改革史を対象としており、これらがいわゆる歴史神学のメジャーであり、私はマイナーであった。なぜ大学院で日本キリスト教史を専攻しようと思ったか、まずそのあたりから書くことにしよう。今、そのことを思い起こすと、その理由は決してひとつではなく、自分の中に複合的あるいは重層的な理由があったように思う。
 私は幼い時から教会の中に育ち、キリスト教的価値観と雰囲気の中で生きてきた。ある人は、それをすばらしいですねといい、また別な人はそれをかわいそうに、という。私のことをどう言うかという、その言い方でその言った人の価値観をかいま見たように私には思えるのだが…。いずれにせよそれだけで私のありようは、この日本社会の中で特異なものであり、自意識過剰にならざるをえなかった。その自意識とは、教会内に対してと教会外に対して、である。 かつてのように具体的迫害といわれることはなかったにせよ、「オイ、西洋坊主の息子」などとからかわれたものだ。キリスト教は、西洋のものか?そうすれば私は日本人ではないのか?それは決して険悪な言われかたではなかったが、このことも真剣に問えば、りっぱな日本キリスト教史の課題である。
 いいかえれば、日本社会の中での少数派であるキリスト教信徒の家庭ということであり、教会の中でも少数派(つまり父が牧師であるということ。もちろんここでは牧師対信徒という意味ではなく、牧師がキリスト教を伝える側にあり、キリスト教の存在そのものという意味)であるという、その意味で濃密に自意識過剰にならざるをえない構造というか図式が成り立っていた。高校時代に人並みに自我形成について悩みながら、大学時代には大学闘争の真っただ中にいつつ、いつも秩序とか権威について考えざるをえない自意識過剰な自分をもてあまし、自分にとってのキリスト教とは何なのかを自問していたようだ。私にとってキリスト教とは圧倒的絶対的権威だったからだ。そのころ読んだ一冊の本は衝撃的だった。高校時代に読んだ赤岩栄の『キリスト教脱出記』のことである。まず、このタイトルが気に入った。”キリスト教脱出”。なんと自由な甘美ないぶきを感じたことか。赤岩栄について、のちに著作集が刊行されたりして、あとになって彼の神学や思想の変遷を知り、彼の到達したのが『キリスト教脱出』だったわけだが、私にとっては、私の「キリスト教出発」になった。つまりひと言でいえばエーリッヒ・フロムの『白由からの逃走』のことばを借りれば、権威的宗教から人道的宗教への転換の契機となった。青年期の揺れ動く振幅の中から、少しずつ、私は私のアイデンティティを求めて、徐々に日本のキリスト教とその歴史に関心を持ち始めた。なぜ自分はキリスト教なのか、と。日本のキリスト教に関心を持つことが日本キリスト教史に関心を持つようになるのには、そんなに困難はない。日本の教会は宗教改革の歴史を持っていないといわれるが、このことを地で行くように私の家の中には、日本基督教会、福音教会、バプテスト教会、ホーリネス教会、メソジスト教会の牧師がいた。そして私はなぜか組合教会の流れにある同志社を卒業した。これは笑い話のようでもあるが事実なのであり、ひとつには日本の中での少数者であるキリスト者家庭での通婚圏がいかに狭いものであったかということにもなろうし、あるいはひとしくそれぞれの人々がイエス・キリストと出会っていったということがあるかもしれない。その際には異教社会である日本では、教派は無関係であったということかも知れない。あるいは教派的節操がないとの言い方もあろうか。 こんなことからも、日本における教派の形成や伝道の歴史、またその必然性に関心を持ち、これらを対象化しながら今の自分のありようを問うことになる。そして、この教派の問題は、次に当然のことながら、日本基督教団の合同と成立過程に関心が広がってゆく。私は戦後生まれだから、私が知っているのは「合同教会」である日本基督教団である。私はこの合同教会である日本基督教団の中に自分のありようを問うことになる。
 1967年に、当時の教団総会議長鈴木正久の名で出された「戦争責任告白」は、しかし当時高校から大学に入ろうとしていた私には、その意味の重大さはわからなかった。幼かった。しかしその後の1960年代後半から始まる大学闘争や反万博闘争の中で、徐々にこの「戦責告白」は、私の中で明確にあれではなくこの方向、あの信仰ではなくこの質を持った信仰へと明確に自覚されてゆくようになった(書いてしまえばこれだけだが、私自身のその間の身の置き方は、あれやこれや、ゴチャゴチャたくさんいろんなことがあったし、今考えると多くの人々に迷惑をかけた)。このようなプロセスを経ながら、あるいは経なければ、私自身、「歴史」と向きあい、「歴史」を自分のものにできない論理的思考のできない(今もそうだが)自分であることを思い出す。
 1974年、べ平連(ベトナムに平和を、市民連合)の仲間だったある友人の結婚式の三次会で、もう場所も忘れたが、新宿の飲み屋で鶴見良行さんから、「君たち、これからはアジアだ。アジアをやれ」とハッバをかけられたことがあった。そのことばは、私の耳に残った。それはベトナム反戦をいいながらベトナムを、つまりアジアを知らずに、否それどころか日本がその近現代史の中でアジアをどう見て、かかわりを持ってきたのかにほとんど気を配らずに、きわめて抽象的観念的なベトナム反戦運動をやっていた私のカカトを撃たれたからだ。元来、論理的思考や抽象的論理操作が苦手な私は、あとで、ここでも徐々に見えてくるのだが、このアジアヘの視点が、近代・現代日本の「近代的」なるものへの信仰への基本的価値構造そのものを問う視点であることに気づくことになるわけだが、この時は、ある種のカンで耳に残った。鶴見さんのハッパによって、私の身近なところを見回してみると、ひとりの人物がいたことを見いだした。私の祖母の兄、つまり大伯父が、大戦直後、インドネシアでピストル自殺をしたということを聞かされていた。形而上学的な観念的な日本アジア関係史ではなく、なま身の普通の市井の人物が、大枠としての近現代日本とアジア関係史、ことに太平洋戦争の軍事支配下にどう生きて、死んだか、興味あることではないか。良くも悪しくもそこに「日本」と「キリスト教」なるものが濃密に凝縮されてパッケージ化されているではないか。
 こう思い至ると「歴史」は、私の中で人間がいきいきと見えるようになり、白黒がカラーになってくるように思えた。それまで私にとってはまったく無味乾燥な年表を通して、そこに人の姿を少し感じることができるような気がしてきた。この人物は三浦襄という。歴史を自分のものにするために、私には長いながい時間と、ゴチャゴチャ、あれこれが必要だった。
 そのころ読んだ、東京経済大学の色川大吉教授の『新編明治精神史』という本は、私に大きな刺激と勇気を与えてくれた。 この本で、歴史の担い手が表面的に表れる権力史、政権史で描かれるのではなく、草深い地方の中で真摯に生きた無告の民衆であることを、三多摩の自由民権運動史の中で明らかにする中で学んだ。いいかえれば周辺(マージナル)なところから歴史を再構成する歴史理解である。イエスは、まったき人間として生き、ガリラヤの、当時の辺境から権威の中心であるエルサレムを見ていたという田川建三氏の『原始キリスト教史の一断面』という本を読んで、歴史の見方にある符合するものを感じとったのもこのころだった。私は、この無名の三浦襄という人物を知るために、京都から早稲田大学社会科学研究所に通って所蔵されている第二次大戦下のインドネシアにおける日本軍政期のさまざまな原資料を読んだ。またインタビューにあちこち歩き、虫めがねでもなければ読めないような字で書かれた彼の日記を解読した。苦しいけれども、ほんとうに学ぶこととその楽しさを知った。
 ここでは彼を十分に説明しうる紙幅はないが、読むかたは何が何だかわかりかねるであろうから、ごく簡単に紹介しておこう。三浦襄は牧師の息子として生まれ、明治学院中等部を中退し、明治末期に堤林数衛という富士見町教会会員によって商売と伝道のために作られた南洋商会の会員となって、明治末期にインドネシアに渡り、のち独立していくつかの商売を手がけたが失敗し、昭和初期にバリ島で自転車屋を開業した。大戦突入後、軍属・通訳となり、日本軍と住民との間の良きパイプ役をはたし、双方からバリ島の父と呼ばれて慕われたが、敗戦後の混乱の中で、戦争遂行に協力した彼は「住民にウソを言った、責任をとる」といって、当初独立予定の日であった1945年9月7日にピストル自殺をした、という人物である。私は当時、資料を通して会ったことはない大伯父と対話を続けた。ずば抜けたエリートでもなく、人生に煩悶して華厳の滝から飛び降りた藤村操のような観念や思想において生き死にするタイプでもない。いわば普通の人の生活や感じ方、判断の仕方を対象化することを通して、私自身と対話させることができた。彼がインドネシアの住民を相手に商売する中で、「近代日本」なるものがどう認識されていたか。日本人は海外において、より「日本」を意識する。そして「大東亜戦争」の意義を住民に伝えなければならない。それとともに、彼が生き、死んだのは、インドネシアの中でも周辺であるバリ島であった。中央に対する地方、あるいは周辺、辺境といっていいところに、人のにおいのするたいせつなものが、ある場合には未整理のまま、あるいは論理化されないままに、そして中央との矛盾みたいなものが疑縮して存在している。 必ずしも対立的とは考えられないにしても、中央と地方には、近代=非・未・否近代、合理=非・未・否合理とでもいっていい図式があるのではないだろうか。そして同様に多数派(議会制多数決の論理)と少数派という関係の中にも、また正統なるものと異端なるものにも、類比の中に見いだすことができるのではないだろうか。
 そして、このような歴史への見方は、聖書の中のイエスのまなざしとの類比として受けとめられていった。イエスのまなざしは、つきることなく低いところに向かう。その飼い葉おけの誕生から、人々に忌み嫌われた十字架の死にいたるまでそうであった。このことを知る時、キリスト教が日本に伝えられて以来、近代精神の担い手とか、西欧文化、すなわち平和、平等、博愛、人権の源流としてのキリスト教とか西洋風、モダンなキリスト教という認識が徐々にこそぎ落とされ、欧米のキリスト教をわれわれの到達目標というモデルにすることから解放され、新たにアジアにある、そして高度に工業化され、アジアに軍事侵略していった負の歴史を持つ日本の中でのキリスト教の存在意義を尋ね求めていくことになる。こうしてみてくると、私にとって日本の教会は、その歴史とイエスのまなざしのゆえに、そしていと小さき私のために、イエスが神の子としてのブライドもかなぐり捨てて仕えてくださり、十字架で死んでくださったそのゆえに、私もまた私の隣人とはだれかについて間われ、答えること、が求められていることに気づかされる。
 具体的には差別の問題や、行政と行政とのすき間の中にあって、あるいは経済の力の下にある人々の問題が、私の前面に課題として立ちあらわれてくる。もちろん私にすべてのことができるわけではないにせよ。いささか宣教史的ないい方でいえば、アジアヘのキリスト教の伝えられ方と日本の場合のそれとの比較、歴史的には多くのアジアの国々がキリスト教国である植民地主義国家によって伝え育てられたそのことと、明治維新以降の、そして後発植民地主義国家となり、天皇制という超国家主義、帝国主義の国となっていった日本、そしてそのような形であれ、とりあえず独立国として存在したこと、その中で一貫して少数者でありつづけていることについて、もっと私たちは認識し、課題を見いだしてよいと思われる。
 例えばインドネシアの場合でいえば、オランダの植民地政策によって宣教師の活動地域が制約を受けて、現在も地域的に著しく偏在しており、ある地域ではキリスト教徒はほとんど存在せず、またある地域ではほとんどがキリスト教徒になっている。また植民地時代の初期には、キリスト教徒になるということは、他の一般的同胞からは植民地への協力者としてみられ、民族主義者からは民族的裏切り者と呼ばれ「イタム・ベランダー(黒いオランダ人)」と呼ばれたことがある。事実、オランダ人たちは、混血化しキリスト教徒になった者たちを優遇する政策をとったのである。
 もちろん日本の場合とインドネシアの揚合を比較して優劣をいうわけにはいかない。それぞれの歴史と社会の中で、キリスト教徒になるということ、キリスト教徒として生きる、ということは、あまり自明なことではなくそれぞれに歴史的課題を持っているということを知らされる。それはまた日本に住む私たちのキリスト教理解や信仰の信じ方、あり方も、決して絶対的なものではなく、さまざまな受容の仕方があるということ、つまり神のなさることには、人知をはるかに越えた豊かさがあり、まだ私たちには隠された部分が多くあること、その前に立つ時、私たちは限りなく相対化され、謙遜にされる思いがする。私は、歴史を学ぶこと、アジアと出会うことを通し、そして聖書を通してイエスと出会うことを通して、低みへの視点といと小さきものへと道すじと、多様性と謙遜にされてゆくことを学んでいる、と思っている。そして、次には学ぶことから、一歩一歩、歩みを具体的に進めてゆかねばならない。
 毎年、私は勤務している短大の学生と共に、タイ・スタディ・ツアーを行っている。首都バンコクの高層ビルとスラムの矛盾、カンボジア難民のキャンプ、北部山岳地帯に国境を越えて生活する山岳少数民族、日本の経済進出とその影響を知り、タイの学生の○○さんや、クリスチャンワーカーの△△さんという固有名詞で人々と知りあう。これらのことを通して、学生たちは低みへの視点と多様性における他者の存在を知り、この地球の中で「共に生きる」とは何かという課題を自分の問いとして持ちはじめる。学ぶこと、知ることが、具体的な生き方へと決定的意味を持つこと。歴史と出会う中でそのことを強く思わしめられる。

『教師の友』 1987年9月号