講演(信濃町教会、2010年8月)

原 誠「教団の成立と信仰告白成立の歴史」

 私は、日本のプロテスタントの歴史、それに加えて東南アジアのキリスト教の歴史などに視点を置きながら、日本の教会を振り返る学びや体験を続けてきました。いま教団が明確な方向性を具体的に持ち始めてきている事に対して、危惧を持っております。
 そもそも日本基督教団の成立がどういうプロセスによったのか、そして日本基督教団の信仰告白がどういうプロセスで成立したのかを、跡づけて考えてみたいと思います。これらについては、教団の年鑑の中の『教団の記録』、そして日本基督教団史資料集一〜三巻にあり、今回はテーマを整理してみたというわけで、特段新しい見解を示すものではないと思います。
 歴史を学ぼうとしない、あるいは数で押し切ってしまう昨今の日本の風潮と同じ動きが現在教団の中にもあり、非常に憂慮しています。これはおそらく神学議論というよりは、政治力学が力を持っているものだと理解しています。それにしても、その中で数として負けないことは、一つの大切な点でありますし、二つ目には歴史的な経緯、あるいは理解、認識ということで、説得力を持つ理解を共有できたらよいと願っています。
 日本基督教団史資料集一〜三巻(ここにも来ておられます戒能先生らの貢献によってなされました)によって非常に多くの成果を得ることができます。日本基督教団の教憲の前文には、教団の成立の経緯について、「くすしき摂理のもとに御霊のたもう一致によって」とあります。けれども、それ以前からなされていた日本基督教連盟による合同運動の努力にも関わらず、合同運動は頓挫していました。教団の成立は、決定的に宗教団体法によるものでした。合同が教会の自律・自治の結果ではなく宗教団体法によって成立した、ということは、どのような教派理解に立つにせよ、教会が国家の統制法の下にあったことを示します。しかも、国家総動員法の下、戦争遂行のための宗教部門の一つという、行政の末端を担うものであったのです。
 戦後、GHQによって廃止された治安維持法や不敬罪などと共に、宗教団体法も廃止されました。その結果、法的縛りが無くなった教団から、いくつもの教派、教会が復帰を求めて離脱をしました。一番早い教会が、1945年10月21日、敗戦後二か月ちょっとのインマヌエル総合伝道団であり、続いて11月15日に現在の在日大韓基督教会、教団合同以前の在日朝鮮基督教連合会が離脱をしました。その後、日本基督教会やバプテスト教会、ルーテル教会などがこれに続いたわけです。これらについては資料がお手元に配られているかと思います。
 日本基督教団の成立過程と宗教団体法ということになりますけれども、日本基督教連盟の合同運動がスタートしましたが、最終的には頓挫しました。これには時代背景を踏まえなければなりません。先ほどの奨励の中で触れられた、「震災にあう中で教会が再建のためのスプリングボードになる」という認識も、逆の言い方をすると、社会の動きに教会が無関係ではないということです。1931年以後の戦時体制が明確に時代を規定しました。
 いま、大学で学生たちに「美濃部達吉の天皇機関説って知ってるか」と聞いても「知らん」というのがほとんどですから、時代の歴史認識が暗くなるのはある意味当然かもしれませんが、1935年美濃部達吉の天皇機関説、あるいは国体明徴に関する声明、1937年の国民精神総動員、1938年国家総動員法などに続いて、1939年宗教団体法が可決されました。その翌年、救世軍スパイ事件が起こり、また1940年は皇紀2600年信徒大会が行われ、教会の「完全合同を期す」ということとなりました。
 振り返ってみると、日本基督教連盟が教派合同運動に取り組むようになったのは、日本ミッション同盟によるものでありました。宣教師たちです。宣教師たちは1925年夏の年会で、この問題の可能性を考えるために日本の諸教派と接触する事を決めて、日本基督教連盟に申し入れました。連盟はこれを受けて、教派合同機運促進に関する調査委員を置く事を決めました。それ以降、16年間に渡ってNCCは合同運動の母体としてこれを支持し、また推進をしました。このような公的組織のみならず、キリスト者有志が結成した基督教各派合同促進会というものがこの運動を側面より応援していきました。
 連盟は教派合同機運促進に関する調査委員を選び、「各派(基督教聯盟加盟教派)現行制度調査」、あるいは「教会合同問題調査」などの調査活動を行いましたけれども、教派合同運動には直接加わりませんでした。それは各派より派遣された委員が組織した共同調査委員会の活動であったからです。しかし、そこでは委員たちは自分の教派を代弁する様な役割を持ち、その結果意見の不一致が生じ、運動は一進一退を繰り返すことになりました。要するに総論賛成、各論反対であったわけです。
 そこで第3回全国基督教協議会は、教派合同問題を主題の一つとして協議をし、教会合同委員会を選出しました。委員会は積極的にこの問題に取り組み、「日本基督公会規約(試案)」を公表しました。このように合同運動が具体化すると、それに同調しない教派が現れました。日本福音ルーテル教会は不同意で、教派合同運動に参加しないことを決議しましたし、長老派系の日本基督教会も同様の理由で合同委員を送らないと決めました。連盟は再び全国基督教協議会で教派合同問題を取り上げて、改めて各派に合同委員の選出を求めました。ルーテル教会は条件を付けて、ルーテル教会独自の伝統を守るということを前提として合同委員を挙げる事にしましたし、日本基督教会は教会合同問題に関する交渉委員を推挙することにしました。結果的には足並みがそろわないわけですから、日本基督教連盟の合同運動は停滞せざるを得ませんでした。
 その合同問題が急速に動き出したのは、1939年3月の宗教団体法の可決によるものであり、それが具体化していったのが40年(昭和15年)8月以降でした。その直接契機は2つありました。一つは、宣教師をスパイ視した新聞報道でした。キリスト教指導者たちは、事実を確認して宣教師たちを弁護するよりも、むしろ彼等と無関係だとして日本社会の中で市民権を得ることを考えました。さらに東京憲兵隊の救世軍取り調べ事件がありました。これもスパイ容疑に基づくものであり、新聞がこのことを大きく報じました。そこでキリスト教指導者は、救世軍のように日本と敵対する外国のミッションとの関係を続けると自らも同様の状況を被るのではないかと憂慮します。彼等は、この際ミッションとの関係を絶つことを考えました。しかしそうなれば、ミッションの援助を受けてきた教派は苦境に立つことは当然です。そこで、彼らは諸教派の合同によってこの難局に対応することを考えました。
 そしてもう一つが、1939年、宗教団体法の成立でありました。これについて補足をいたしますと、明治時代の末期に、「三教会同」があったことをご存知でしょうか。神道と仏教とキリスト教の各派の代表を集めて、国民の精神、国民の生活倫理のために協力してほしいということを文部省が要請したことに対して、それまでは日陰者、あるいは非国民と思われていたキリスト教会は、国家から要請を受けたことで、ほとんど舞いあがるような形で、誇りを持つことが出来るようになりました。この場合の神道というのは、神社神道ではなくて、教派神道13派のことです。神社神道は、神社非宗教論に基づいて文部省の管轄には入っておりませんでした。このように、国家から期待され市民権を得ることは、明治以来の日本の教会の基本的な基軸でありました。
 2度ばかり、国家から宗教法案が提示されましたが、これは廃案になりました。この時の力は非常に強いものがあったわけです。浄土真宗やキリスト教会はこれに対して反対運動を展開して、葬り去ります。その時の宗教法案の問題は、宗教教師について国家資格を与えるというものでした。キリスト教の場合は基礎的な教養がものすごく高いのに対して、仏教あるいは教派神道の宗教指導者の教養が非常に低いことに対して、国家資格を与えるというものであったわけです。しかしこの時の宗教団体法は、そのような棘を抜いて飲み込みやすくし、加えて文部省行政の一つの宗教行政を担う、それゆえに免税をすることによって、宗教各派は合同へと進んでいくことになります。
 宗教団体法の可決以後、文部省が教団の認可基準として50教会5000人以上の信徒数を内示したために、近い形をもった教派との合同が促進されていきました。基督教同志会では主としてメソヂスト、組合が合同を推進し、日本基督教会は推進派とそうでないグループに分かれました。1940年、「皇紀2600年奉祝」全国基督教信徒大会では、各派合同の決意表明がなされたのですが、その際に「信仰職制」に関わる一致があったわけではないのです。これは明確なことです。準備委員会は、組合教会、ルーテル教会など超教派ブロック制の合同教会を目指そうといたしました。日本基督教会が二つに割れたというのは、信条による完全合同を目指したのですけれども、信条を持つか持たないかで合意出来ませんでしたので、撤回し部制をもってスタートするとなりました。これが日本教団が成立した時の、11の部制の歴史的な経緯でありました。
 私の理解でいえば、宗教団体法の成立を受けて、キリスト教連盟加盟各教派はそれぞれ宗教団体法の下での宗教教団を造ろうとした、つまり分かりやすく言えば日本組合基督教団、あるいは日本メソヂスト基督教団、というふうなことが出来れば何ら問題はない、と考えていたわけです。けれども、文部省の方針転換でそれが実現出来ず、部制で出発したということになります。ですから、日本基督教会も信条ということを強調したのですけれども、宗教団体法の本質を見抜いていたわけではないわけですから、教団の教憲の前文の「くすしき御霊のたもう一致によって」成立したわけではないということは、歴史的に明確であろうと私は思っております。
 ご存知の方は多いと思いますけれども、この時期の超教派の合同運動の過程で、在日本朝鮮基督教会、現在の在日大韓基督教会が日本基督教会に加盟を申し入れました時に、日本基督教会の浪花中会は、まず日本基督教会の信条に服すること、二番目に日本語を使用すること、三番目に牧師の再試験の実施を求めてこれを通告いたしました。日本基督教会は在日本朝鮮基督教会と合同するのではなく、転入の扱いで条件を付けたということになります。この時に信条と言ったのは、他者とか他教派の協力を求めるのではなくして、自分の立場にくっついてくるかどうかということのみが述べられたということになります。
 教団の成立でありますけれども、「教団の記録」から見ていきますと、文部省は教団が部制をもってスタートしたことに対して難色を示しました。ですから、「当分ノ間」部制を認めるということでした。要因は2つありました。「教団の記録」からは読み取ることが出来ないのですが(『教団史資料集』には出てきます)、富田満統理が文部省に、できるだけ早く部制を解消するという「上申書」を出していたということです。そして二番目に、ホーリネス系教会一斉検挙でありました。文部省の指導によって、戦時下に行われた第1回教団総会で「部制解消」し、単一教会になったわけです。
 戦時下の教会の歩み、教団の歩みは、教団年鑑等々でも知ることが出来ますのでここでは細かいことを触れることはいたしません。ただ、戦時下にあって、信条や信仰告白に関わる議論がまったくなかったわけではないのです。その辺のことに注目して、少し取り上げてみたいと思います。
 「信仰問答」「教義の大要」というものがありました。教団成立時、「教義ノ大要」が定められました。これは信仰告白を議論する、制定することができなかったからです。後で時間があればお話ししたいと思いますが、そもそも複数の教会が一つの教会になるという時の、そのステップはどういうものかという議論がないままに、宗教団体法によって市民権を得て合法化することが急がれましたから、内部的な議論を詰めた上での議論ではなかったというのが、この時にも露呈するわけです。
「第五条 本教団ノ教義ノ大要左ノ如シ
イエス・キリストニ由リテ啓示セラレ聖書ニ於テ証セラルル父・子・聖霊ナル三位一体ノ神ハ世ノ罪ト其ノ救ノ為人トナリ死ニテ甦リ給ヘル御子ノ贖ニ因リ信ズル者ノ罪ヲ赦シテ之ヲ義トシ之ヲ潔メ永遠ノ生命ヲ与へ給フ教会ハキリストノ体ニシテ恩寵ニ依リテ召サレタル者礼拝ヲ守リ聖礼典ヲ行ヒ福音ヲ宣伝ヘ主ノ来り給フヲ待望ムモノナリ
第六条 本教団ハ旧新約聖書ヲモッテヒトヨノ教典トシ使徒信条ソノ他ノ信仰ノ告白ニ準拠スル」
というわけです。
 戦時下の「信条問題」に限って申し上げますと、結論的にいえば懸案になっていた「信条」については、「信条特別委員会」で「先づ教育的なる教理問答より入ること」として「信仰問答草案」の作成に入ります。その「問答」について、文部省は「創造神否定、キリスト復活の削除」を求めました。これは迷信であるというのです。村田四郎教学局長はこの時に初めて「殉教を決意」という言葉が出たというふうに『東京教区史』の中には記されています。しかしこのとき時間切れで「敗戦」となってしまい、これ以上国家とぶつかるということはなかったというのが歴史的な経過です。つまり、議論し準備したものの、実際は様々な教派の合同でありましたから、信条を制定する見通しはありませんでした。最終的に文部省との交渉過程において「殉教」ということが初めて出たということです。
 次に、宗教団体法から宗教法人令へということになります。お手元に同志社大学法学部の伊藤彌彦教授の作成した資料があるかと思います。これを読んで、改めて宗教団体法というものがどういう性格のものであったのか、よく分かりました。治安維持法とか、不敬罪とかは、一般にも恐怖の的として見られていたと思うのですけれども、宗教団体法はまさにこのような統制法の一つ、弾圧法の一つであったのです。
 宗教団体法についてもう少し申し上げますと、私は調べたことがあるのですが、戦災にあっていない教会で戦時下の教会の資料が全部残っている所では、たぶん「常会」という資料も残っているはずです。日本基督教団常会があり、教区の常会があり、支教区の常会があり、各個教会の常会がありました。これはコインの裏表であって、片一方で宗教団体法に基づいて完全合同した日本基督教団◯◯教区××支教区△△教会という側面があり、それと同じように、日本基督教団の戦時宗教報国会の教団常会があり、教区常会があり、支教区常会があり、各個教会の常会がありました。ですから教会によっては役員会と常会をセットでやったり、あるいは第1週と第3週に分けたりしてやっています。そこで国債を引き受けるとか、食糧増産とか、あるいはお寺では鐘を供出するのが教会の場合は鉄の門を供出するとか、といったことのために動員されたということです。宗教団体法の下にあった戦時下の教会というのはどういうものだったのかを表しています。
 この宗教団体法が統制法であったために、GHQによって廃止され、その後、戦後の歩みが始まるわけです。そこから新しい日本基督教会が離脱します。その他、いくつもの教会が離脱をしていくことになります。理由のいくつかには、旧教派に戻ることによってアメリカの母教会と直接コンタクトを取ることができ、資金援助や教会堂の再建、牧師館の再建、宣教師の招聘など、GHQの宗教政策の対応の中でより有利であるというようなこともありました。こういうふうなことで、宗教団体法の法的縛りがなくなると、離脱が始まっていくわけです。そしてその離脱教会の動きがほぼ終息し、教団の現有勢力の範囲が確立するに従って、「会派」問題が登場していきます。離脱した(新)日本基督教会、これは資料を調べてみますと、北海教区では18の教会・伝道所が日本基督教会の背景をもっていたようですが、1つの教会を除いて17の教会・伝道所が離脱します。当時の北海教区の教会・伝道所が43ある中で、約40パーセントの教会がいわゆる新日基に離脱をしていくということになりました。全体では36の教会が教団から離脱をして新日基を造ります。教団創立時の教会等々についての数字はペーパーに少し載せておきました。
 日本基督教団の信仰告白制定への動きですが、宗教団体法の制約から解放されると教団から離脱する諸教派教会がありましたが、大多数は教団に留まりました。つまり、日本基督教会系と、メソヂスト系と、組合教会系と、そしてホーリネス系の教会の一部、それから単立の教会で救世軍やバプテスト、聖公会の背景を持つ教会が教団の中に残っていくことになります。しかしながら、教団に留まったすべての教会が一致して一直線に一つなる教会の形成に向かったわけではありませんでした。旧教派の伝統は根強く残っており、信仰告白に関しては、「信仰告白は教会存立の基礎であって信仰告白をもたない教会はあり得ない」とするもの、また信仰告白の主体を各個教会に求め「教会全体の信仰告白はその最大公約数にすぎない」として拘束性を認めないもの、成文の信仰告白をもたない立場のものなどが、寄り合わさっていたわけです。また「会議制」は、歴史的な監督制・長老制・会衆制と並ぶ第四の制度ではありません。会議制という教会制度はないのです。現在教団は、「会議制によって教会政治を行う」となっているわけですけれども、これは歴史的なものではなく、この監督制・長老制・会衆制三つに共通する最大公約数的な、したがって三つのいずれにも受け取ることができるようなあいまいなものでした。こういう状況の中で、教団は会派問題に取り組みつつ機構を改革し、信仰告白を制定したのです。
 現在の教団の議論の中でもしょっちゅう「信仰告白を重んじる」と言われるわけですが、そもそも「信仰告白」とは何かという議論、そのものの成立について正しく理解をしておきたいと思います。「信仰告白」とは、「基準」か、「感謝、賛美」かの両論がありました。加えて、信条教会、非信条教会、各個教会で信仰告白をもつ会衆教会、これらの違いを歴史的に、あるいは神学的に、きちんと踏まえておくということが、とても大切なことだと思います。ですから、信仰告白を制定したから正しい教会になったというのはまったくの虚言だと、私は信じています。信仰告白がなかったから駄目だったという議論は成立しないと思っています。
 教団の「信仰告白の制定過程」に触れていきます。教団は、成立の時にも、部制廃止に際しても、一方に強い要望がありながら信仰告白の制定にまでは至りませんでした。教団憲法草案の第3条「信仰ノ要領」は、日本基督教団規則第5条「教義ノ大要」よりも信仰告白に近づいたものでしたが、教憲第3条には「教義ノ大要」が代わって入ったために、ついに日の目を見ませんでした。そして、第4回教団総会の決議によって設けられた信条委員会は、信仰告白草案を作成し発表しましたが、これも同様に草案で終わってしまいました。それは主として、教団が信仰告白をもつことについての合意形成が不十分であり、したがって草案提出は不適当と委員会が判断したためでした。信条委員会は、1948年第5回教団総会に、信仰告白草案の代わりに教憲第2条修正案を提出し、これによって教団は、使徒信条を告白することとなり、信条を持つ教会となりました。第5回教団総会は、15名の機構改革委員を選挙し、第4回教団総会の教憲教規制定によって定められた教団機構の改革に関する立案を託しました。機構改革委員会は公認を要求してきた会派の問題をも取り扱って「会派問題に就ての報告(会派問題報告書)」を作成しました。教団機構については教団組織の民主化、中央機構の簡素化、教区権限の強化を骨子とする「教団機構改革案要旨」をまとめました。改革案は第6回教団総会に提出されて可決されました。これによって教団の組織が一応整備、確立され、1951年に発足したこの体制が1968年の機構改正まで続くことになったわけです。
 けれども、この機構改革において会派が公認されなかったことによって、これを不服とする旧日本基督教会系の一部教会が離脱を始めました。その理由の中には信仰告白問題が大きな部分を占めており、使徒信条を告白するだけでは福音主義教会の信仰告白になっていない、拘束力のある福音的信仰告白をもたない教団は教会ではない、ということが強く主張されました。これは戦前の日本基督教会が宗教団体法の下で、あるいはそれ以前の日本基督教連盟の合同運動の過程で主張したものと、まったく変わらないスタンスということになります。これに対して会派問題特別委員会は、残った教会で教団を形成するという中で、教団内教会あるいは教会内教会というふうになることを認めない、そういう『会派問題報告書』を決めます。『会派問題報告書』というのがあるわけですが、「会派問題」は、教団内で共通の課題ではなく「或部分では熾烈(しれつ)な関心を」もつ立場がある。「或部分」というのは当然日本基督教会の背景を持つ教会だということです。メソヂスト教会やあるいは組合教会の背景を持つ教会にとっては、そんな大きな議論ではないわけです。「教会中の教会」という如き矛盾せる概念が成り立ち難き限り、教団内に教会性をもてる会派を公認することは不可能であるというわけです。
「『教憲』 昭和21年10月16日制定
第2条 本教団は旧新約聖書を神の言にして救の要道を悉く載せたるものなりと信じ使徒信条其の他の信条及信仰告白に準拠するものとす。」
 「これは「告白」の意味に受け取るべきであり、その解釈には或程度の自由は認むるも、度はずれた解釈は認められないという立前を妥当とする。」
 「『告白』は、根本的には福音への讃美告白であり、かかるものとして同時に拘束性を持つと考える。信条解釈に際し相違が生じた場合には、法的措置の前に、必ず神学的論議の領域が設定される必要がある。」
 「教会性とは、教派に類似する如き性格、即ち、閉鎖性、完結性、排他性である。これらの性格をもてる会派を公認することは、『教会中の教会』という矛盾を犯すことである。」
 これらがポイントです。これについて興味深いのは、教団の教会において「アンケート」を取っていますね。教団史第三巻の資料43「教団内における信仰告白についての現状調査報告」というのが出て来ます。これについては、こう説明されています。

 信仰告白制定特別委員会は、信仰告白制定への積極的な努力をなすと共に、教団内の現状を慎重に考慮するという方針よりして、信仰告白について教団内での現状を調査することとなり、委嘱された委員たちは長時間を費やしてそのことにあたった。以下はさる1月7日の第二回信仰告白制定委員会においてなされた報告内容であり、右委員会の若干の付加意見を経てまとめられたものである。調査を委嘱された委員たちは分担して調査にあたり、教団内でのいくつかのオリエンテイションをまとめてきた。もちろんこの種の問題は類型化することを必ずしも妥当とせず、類型間の相違を強調するよりも、それらを貫く共通点を認識することも重要であると考えられるが、そのような解決への前提として一応オリエンテイションの把握を試みてみたことを了承していただきたい。調査対象は必ずしも数量的に全般を覆っていないため統計として考えるわけにはいかない。しかし、大体の方向性に関しては妥当性をもつものと信じている。項数は考慮外においていただきたい。
(1)「使徒信条を告白す」という教団の建前に従って、教団が信条を持つ教会だと考えている立場がある。
(2)信仰告白の内容的問題に関しては教団は一致の線を進んでいると考える立場がある。
(3)使徒信条は福音的教会の信仰告白としては最低線である故、この信条内に含まれていないで而も聖書中に存在する根本的信仰内容を、更に告白するように努めたいと考えている立場がある。例えば、三一神、受肉、信仰による義と聖化などのごときである。ただしこれらも、古典的信条の形態や名称までも必ず維持せんとならんと考えるものとは限らず、それらの信条の真理内容が確保されること考えているのである。
(4)右に述べた(3)の立場と共通の考え方に立って、福音的信仰告白の厳密化を念願しながら、ただその告白を教団全体として持ち得るに至るために、従来ノン・クリーダルな伝統に立って来た教会とも共通に進みたいと考えて、この厳密化を直ちに形式的に推進しようとは考えず、相互理解による共同の歩みを考えている場合がある。
(5)現段階における教団の信仰告白が福音的信仰告白として盛るべき内容を充全に盛り込んでいないところからして、この段階以上に内容的に豊富であった旧教派時代の信仰告白を使用している教会もある。これは旧教派の解消とともに、旧教派の信仰告白を新たに一個教会の信仰告白として採用しているものである。しかしこれも、旧来の形式をそのまま維持せねばならんと考えているとは限らず、内容について同様のものであれば、それを採用する方向がある。この現状は教団全体の立場から見ると問題視せられるかも知れないが、然し教憲の「その他の福音的信仰告白に準拠す」という建前から、合法的に解釈することも不可能ではなかろう。
(6)教憲第二条および第三条に掲げられている三一神、受肉、信仰による義認、聖化等の真理内容を信仰告白の支えとして用いることを適当であると考える立場がある。
(7)現在の教団の信仰告白で一応満足して、これ以上のものをもつ事を積極的に考えていない立場もある。しかしこれも、教団に新しい信仰告白が生まれるなら、これに従う用意はある。
(8)従来のノン・クリーダル・チャーチの伝統に従って、成文化された信仰告白をもつことに問題を感じている場合もある。
(9)右の立場に対して同情をもちながら、しかしそのようなノン・クリーダルな伝統は、その教派が発生当時に相手とした統制主義的全体主義的教会へのレジスタンスという歴史的状況によって生れて来たものであって、現在もそのような相手を想定してその当時のままの伝統を絶対に固執することは、却って問題であると考える立場もある。ここでは信仰告白のもつ拘束性をも承認しながら、而もそれが右のような反動化を惹き起さないように、十分話し合って問題を打開するようにという希望が見出される。
(10)信仰告白を重視し、その拘束性を強調する立場も、歴史的信条主義として知られて来た立場と簡単に同一視さるべきでなく、その主張の真意を十分に聴かねばならないという考え方もある。
(11)単なる基督教連盟でなく「教団」という合同教会形成へ参画したのであるから、あらゆる旧来の伝統的立場は自己の伝統を権利として主張するだけでなく、それを尊重しながら、而も他の伝統的立場に対して相互に理解と歩み寄りとを志すべきであり、このことは信仰告白の問題についても言われることであると考える立場もある。
(12)然し右のいうような歩み寄りによる共通の解決に至るまでに伝道と教会訓練の必要から、伝統的流れを単位にした信仰告白に基づくグループを認めてもらいたいとの意見もある。
(13)同時に右の(12)のいうグループの意義を認めながら、しかもこれをあまりに固定化すると教団全体を貫いた共同の解決が疎外されるおそれがあるから、たとえその様なグループをやむを得ずとしても、これを可能な限りオープンな形にしておくことが必要であるという考え方もある。
(14)教団は大体旧来の教派的な考え方から脱しかけた歴史的段階に入っており、従って旧来のものの対立や相違を強調するよりも、教団はむしろ創造的(クリエイテイヴ)な信仰告白を生み出すように努力すべきであるという立場もある。
(15)教団は信仰告白を形式的に整えることを急ぎすぎてはならないという考え方もある。信仰告白は教会の実質的内容から生み出されて来るものであるから。いたずらに形式のみを先に考えてはならないという考え方だ。
(16)教団は信仰告白の制定に当っては、教理上の諸問題を取り上げて検討すべきであるという立場もある。
(17)教団が教会としての性格を明確化しようとするのであるなら、能う限り速かに教団としての信仰告白をもつようにすべきであるという立場もある。
(18)教団は政治的危険をおかしてまで、急いで信仰告白制定を考える必要はないという考え方もある。
(19)現在の信仰告白の線で教団内の理解と統一とを深め、その上で次のステップに進むのが妥当であるという考え方もある。そのために教団内での信仰告白についての教育と訓練とを必要と考える立場である。
以上の報告を材料として慎重協議の結果、信仰告白制定特別委員会としては、前号に報告したごとく、教団の大体の方向としては本委員会設置の本旨に沿えるものと認められる。同時になお教団内には、信仰告白の理解についていくらかの問題点も残されていると認められるゆえに、本委員会としても十分の配慮をなすことを明らかにした。従って信仰告白制定の努力と上述の配慮とを並行的に進めることになる。(『基督教新報』 1952・1・26)

 というものです。常議委員会はこの解説の承認に対して、信仰告白制定に向かって努力すると付帯決議をし、この決議に基づき信仰告白制定特別委員会が組織されました。こうして信仰告白が制定され、そして信仰問答について村田四郎教学局長は、第5回特別常議員会(1945年)において「今後慎重ニ再検討シ整備シテ公表スル意向ナリ」と述べ、1946年3月開催の常議員会では「戦後ノ今日多少ノ修正ヲ加フルヲ要ス」と説明しました。
 これが日本基督教団の成立の姿でありました。様々な立場があり、いまアンケートを少し紹介しましたが、いま私たちの立っている教会、あるいは抱えている状況、あるいは神学的訓練を受けていた教会、神学校等々の中で、このアンケートの中に、自分はここにあるなあと共有する部分が随分あると思うんです。教団の信仰告白成立そのものの段階ですらそうでしたし、度外れた解釈をめぐってということもかなり丁寧に議論されました。何をもって度外れた解釈とするか。こういうふうなことで、信仰告白の成立というものがこういうプロセスの中で成立していったということでありました。
 離脱した教会がありました。残留した教会によって構成される教団にあって信仰告白の位置付けが多様であることを承知しつつ、私の理解によれば、より本質的には信仰告白の内容そのもの、つまり信仰告白の主体そのものの内実を尋ね求めるということよりも、教団に残留した教会の共通基盤として成立したものであって、その位置付けをめぐって真に合同教会、すなわち信仰と職制を含む教会の実質を生み出していくという姿勢ではなかったのではないかと、私は考えています。
 と言いますのも、昨今、「合同教会」という表現がおかしい、「公同教会」があるだけで教権教規のどこにも「合同教会」という表現はないんだという意見を耳にします。何を言っているのだろうかと思います。つまり私たちの中で、教団が成立した時もそうですし、それ以来、今日に至るまで、「合同教会」ということの意味するモデルを持っていたのかどうか、サンプルを持っていたのかどうか、ということが非常に気になります。
 なぜかと言いますと、ちょっとここでご紹介したいと思いますが、私は今週タイに行って、タイの教会の方々と一緒になるのですが、タイの教会は「タイ・キリスト教会」、成立時は「シャム・キリスト教会」と言いました。1926年くらいの創立だったと思います。タイ・キリスト教会の各教区には番号が付いています。第一教区、第二教区、現在十六教区まであります。どういうことかと言うと、タイ人の中でのキリスト教伝道は様々な教派が伝道しましたけれども、アメリカの長老派の教会が一番大きな影響力を持ちました。しかし、それらを含めてもタイの全体の人口の0.5%です。様々な教派があって、セブンスデー、ディサイプルズ、会衆派も入っていたのですけれども、力を持っていたのはアメリカの長老派の教会でした。タイという国の中で、一番大きな数をもっているのは少数民族なのです。少数民族は従来、タイ国籍を持っていません。持てないのです。タイ語も分からない。だいたい、北タイのビルマとの国境に近い所に、約100万人近く少数山岳民族がいて、その内の40万人がクリスチャンです。そっちの方が数が多いわけです。彼らはどういうルートから来たかと言うと、北の中国の雲南省から共産党を嫌って逃げてタイに入って来た人たち。もう一つは、ビルマのカレン族が東のタイの方に入って来て、そういう中でキリスト教伝道が続けられていった、という人たちで、ほぼ全員がバプテスト教会です。今現在、タイの中でカレン族の教区が三つあり、ラフー族の教区が一つあり、というわけで番号が振られています。地域的に複合しています。わかりやすく言えば、東京教区というのがあったとしても、その東京教区は日本人の東京教区であり、片一方で東京と神奈川と埼玉を合わせて「関東在住アイヌ人教区」がある、というふうになっています。なぜタイ・キリスト教会がそういうふうに出来たかというと、タイで信教の自由が憲法で認められたために、タイの中に居住する少数山岳民族の教会を翼の陰に支えるということを一番大きな理由として合同教会が出来たわけです。
 これが私にとっては重要な一つのヒントです。何のための合同教会なのか。日本基督教団と違うところの一つは、現在日本基督教団とキリスト教学校同盟、あるいはキリスト教社会福祉同盟等々が、法人格が違うために並列関係にあります。タイでも同じように、医療、病院、学校、教育等々、様々違うわけですが、そのヘッドクオーターとして0.5%のタイ人のキリスト教会(CCT)が、社会福祉の現場に、あるいは病院に、学校に対して理事を送り込んでミニストリーを展開する、そういう組織を明確に造り上げているわけです。教会の幹部がえらい権限を持っていて、というのがいいかどうかは別として、教会と学校と社会福祉がキリスト教の宣教の展開として存在しているのです。歴史的なプロセスがそういうものであったのですが、合同教会と言った時に、教会の教会、教派の教派、神学の神学などではなくて、学校でも病院でも、そういう所にまでキリスト教の影響としてタイ社会の中に生きているということを見る時に、合同教会というのは何なのかというヒントをもらった気がします。
 もう一つ、私の限られた経験でありますけれども、オーストラリアでの経験があります。オーストラリア合同教会というのがあるのをご存知の方もおられると思います。元々は白豪主義の国であったので、アングリカンが一番大きな教会。その次がカトリック、そして長老派、メソヂスト、会衆派の教会がちょろちょろとありましたが、その三つの教会が第二次世界大戦後、十五年くらいの時間をかけて、合同することによってオーストラリア社会の中で使命を果たすことが出来るということで、内側からの議論を積み重ねていって、オーストラリア合同教会が出来ました。そのオーストラリア合同教会の名前はThe Uniting Church in Australiaです。Unitedではないのです。合同し続けている姿がありました。
 私は日本基督教団から派遣されて、その調査のためにオーストラリアに行きました。なぜ派遣されたかと言いますと、シドニーとメルボルンにいる日本人五千人、三千人の中にクリスチャンがいるはずだ、オーストラリアに住んでいる日本人クリスチャンは、日曜日どういう信仰生活を送っているか調べてほしい、という依頼だったんですね。あらゆるつてをたどってオーストラリアを訪ね、それを調べてレポートを書いたわけですけれども、そういう中でオーストラリア合同教会を知ることが出来ました。非常に新鮮な思いでした。
 ある教会は、伝統的な教会で、看板には、普通の教会のように10時半からの礼拝がある。そこにはもう一つ看板があって、Chineseとなっていて、その教区の中に住んでいる中国人たちが中国語で礼拝を守るために、その教会は午後2時からは中国人教会になるんです。そこにオーストラリア合同教会の牧師で中国語で礼拝をする教会・教区があるんですね。そのことを見た時、私たちは、日本に住んでいる在日朝鮮人・韓国人のための教区を持っていたか、弾き出した、あるいは向こうから見捨てられた、という歴史なのだということを思います。もちろん各個教会の中で、在日の二世三世や、いろいろ複合的なバックグラウンドをもった人たちがたくさんいること承知していますけれども、少なくとも日本基督教団の宣教の視野の中に、アイヌや、先ほどの開会礼拝の時に言われた沖縄といったことが、それとして受け止められて、我々の構成メンバーの一つとして位置付けられて来たかと言うと、そうではなかったということを思う時に、合同教会とは何かという事を思いました。
 そこでさらに興味深かった経験です。礼拝に行きましたら、8月なので向こうでは冬ですね、ほとんど映画の世界のように思いました。コートを着て、ステッキを持って、腕をとってという形で教会に入って行くわけです。礼拝堂に入りましたら聖歌隊席があり、どんな聖歌隊なんだろうと思って見たら、おじいさんおばあさんばっかりなんですね。「若い人いませんね」と言ったら、その教会を案内して下さった幹事の牧師が「Youth Serviceというのを今日やるんだ」と。そこはメルボルンだったんですが、「東西南北100kmからバスをしたてて青年をメルボルンに集めて来て、礼拝をするんだ。青年たちのための礼拝なんだ。今日あるから行くか」「連れて行ってください」と。するとそこはドラムにギターを弾いてという礼拝ですね。そしていい演奏だったりすると式次第が紙飛行機になって上の方からヒューと降りて来るわけです。音楽がいいと、ピーピーと口笛がなって、という感じで、そういうふうな中で、非常に鮮烈な印象だったのは、そこで交読文が読まれるわけです。詩編の交読文は私たちも頭の中にあるわけで、私はそれしか経験がありませんでしたけれども、その交読文は、「神様、あなたは私たちに命を与えて下さいました」と言うと、「神様から与えられた命を私たちは大切にすることが出来ますように。麻薬の害から私たちを守って下さい。あなたは私たちに大地を与えて下さいました。この大地に生きる、私たちの先住民であるアボリジニと共に生きることが出来ますように」。あるいは、「私たちが隣人と共に生きることが出来ますように」。それはフィジー、サモアという人たちのことで、本国がイギリスではない人々であるわけです。
 また、教区の事務所に挨拶に行けと言われたので、行きましたところ、10時のアポイントメントだったのですが、よく分からなかったので9時半頃に着いてしまいました。「早く来てしまいました」と言うと、10時まで案内してやるということになりました。教団のビルよりも大きいのですが、教師部や社会部といった所のセクレタリはみんな牧師です。その下にスタッフがいて、教区議長に10時に会ったら、教区議長は信徒でした。歳は65か70か、いわゆるリタイヤした人ではないかと思いましたが、信徒が教区議長であって、その下で実務を司っているのが牧師たちで、我々の教団の発想とはまるで違う。もちろん会衆派の伝統によれば違う解釈もあり得ると思いますけれども、そういう合同教会なのです。
 もう一つあったのは、昔同じ地域の中にメソヂスト派と長老派と会衆派の教会がそれぞれあった。そこで、この地域の中に教会は三つはいらない、二つで十分だ、となった。だから一つがなくなって二つの教会が加入して来るのではなくて、新しい二つの教会を造ろうとしたのです。つまり信徒のシャッフルです。一つのなくなった教会は、アンティークレストランになったと聞きました。教会を売り払ったのか、教会の運営でレストランをしたのかは知りませんが、そういうふうにやった。日本基督教団の教会といった時に、一つの地域に二つの教会がどういう形であるでしょうか。私の住んでいる京都は、2km周辺にいくつ教会があるか。東京で言うと、渋谷界隈の2km四方くらいにいくつ教会があるか。そうおもった時に、合同教会として成立していくとはどういうエネルギーが必要であるのか、ということについて、ああと思わされることがありました。
 そのような中で、旧教派という伝統ということを分からないでありません。私個人のことで申し上げますと、私は同志社の神学部を卒業しましたが、私の父は関西学院の神学部を卒業しました。私の祖父も牧師ですけれども、ホーリネスでした。ホーリネスが分裂した後、メソヂストに入れてもらったんです。そのもう一つ上の代も牧師でありまして、明治学院神学部第一回卒業です。ですから私は、教団を内側から造り上げて行くというのはどういうことなのか、その時に内側の議論で、長老主義、メソヂスト主義、改革主義という議論を越えた、止揚した内容をいかに形成していくか、という視点がない所で、今起こっている議論がいかにも生産的でないと私は思えてなりません。かつての自民党や民主党のような派閥の引き摺りあいみたいな形で起こるのではなくて、宣教の使命のために、今何をすることが課題なのかという、そのことを抜きの議論は何も生み出さないだろうと思っています。そんな中、教憲教規に対する議論を、教団は非常に粗雑にやっていて、教会理解の話ではなくて、冒頭申し上げたように政治力学で動いていると思っています。ですからそれはそれとして、数でいま若干負けているとしたら、もう一踏ん張り、二踏ん張りして、ひっくり返して行く時期が必ず来ると私は信じています。それは、日常の信仰生活、教会生活の中で、必ず我々の立場が理解されていくと信じているからです。
 最後いささか粗雑にはなりましたが、たぶん「日本基督教団史資料集」をていねいに読めば出ていることで、新しいことはあまり言っていないと思いますが、整理をしてみました。一応これで終わらせていただきます。