命どぅ宝(命こそ宝)

 沖縄とわたしたちの「ありよう」
 今日は沖縄の「本土返還」から二十五年経った日です。来週のチャペルアワーで北海道から宮島先生が来られ「アイヌの人々との出会い」ということでお話をされますが、北と南で、ちょうど奇しくも今週と来週と、テーマが繋がることになります。

 ご承知のように沖縄の「婦女暴行事件」から始まって、現在に至りますまで沖縄は大きな問題になっています。この事件は、沖縄と私たちの「あり様」そのものをも、非常に鋭く深く問われる問題であることに気がつきます。
 私は個人的に沖縄にかなり強い思い入れがあります。ちょうど一か月前、四月十五日の夜、私は大阪の扇町公園におりました。数千名の人達がそこに集まりました。私も沖縄に反戦地主として一坪持っています。突然、一坪持つことになったのではなくて、私の個人史のなかでもいくつかの関わりが沖縄にはありました。そんなことから沖縄の歴史について認識を深めるようになりました。沖縄と私たち本土とを結ぶ一人のキリスト者として、キリスト教の信仰の視点で物事を考えてみたいと思います。そのようなことから、しばらくお話をしたいと思います。

 「ベトナム戦争」の頃
 私は高等学校の時代に九州の福岡におりました。そのころ、私のいた高等学校で修学旅行がありました。私はお金が無かったので参加できなかったのですが、行き先は沖縄でした。私のクラスメートたちはパスポートを取って沖縄に行きました。沖縄に行くのにパスポートが必要な時代だったのです。
 それから暫くたって六十年代後半になりますと、現在の沖縄市、当時はコザと言いましたが、そこで非常に激しい暴動事件が起こりました。またその時代、六十年代後半はベトナム戦争が激しくなっていく時でありました。沖縄から米軍の飛行機が飛びたっていってベトナムに爆弾を降らすわけです。
 私が胸の痛む、胸の熱くなる思いで見ていた出来事がありました。沖縄で最も良い就職口というのは米軍のキャンプで働くことです。そこで働くことによって、生活の糧を得て一家を養っていく、そのために最も有力な職場が米軍の基地であり、更に英語をしゃべることができれば、就職のチャンスがさらに広がるというわけです。今は「全駐労」といっていますけど、当時「全軍労」と言いましたが、基地で働いている労働者たちがベトナム反戦運動に連帯するために、飛行機の修理や整備にちょっとずつサボタージュをいれるわけです。そうすると今日飛びたてるという飛行機が、もしかしたら明日になるかもしれない。明後日になるかもしれない。そうすると爆弾を降らすのが少しずつでも遅れていくかも知れない。そういう運動を「全軍労」の人達がしておりました。当時の私は、生活の拠点もなしに、養う必要もなしに、勝手に気優に動いている学生の身分でした。それに対して「全軍労」で働く人たちは、家族を養うという重荷のなかで、ベトナムの人達に対してすこしずつサボタージュをしていくという運動を行なっていたのです。私は、そのことを新聞で読んで、非常に胸の熱くなる思いがいたしました。

 「沖縄の人たちを変える」
 私が初めて沖縄に行ったのは、1979年、今から17年前、いわゆる「本土復帰」から7年が経った時でした。その時タクシーに乗り、運転手さんに聞きました。「本土復帰」以前は、沖縄ではアメリカと同じように、タクシーは右側を走るわけです。今は全ての車が私たちと同じように左側を走っています。

 「その時(「本土復帰」)はどうでしたか」
と聞いてみると、行政からもあらゆる措置がなされて、軍票やドルが使われていたのを、日本の円に切り変えていくとか、そのタクシーの会社もハンドルの位置を逆に変えるために特別の補助金を貰って変えていったというような事例をタクシーの運転手さんから聞きました。
 確か一九七八年だったと思うのですが、その年の七月三十一日の夜中の十二時を期して、交通システムがいわゆる本土並みに変わりました。それまでアメリカ流に右側を走っていた車が左側に変わるというわけですから、交差点でありますとか、いろんなところで慣れなくて、路線バスなどは崖から落ちたり、道路から外れ落ちたりとか、いろんな事例が沢山あつたようです。また荷車を引かせていた牛も、慣れないものですから、ほっておくと必ず右側の方に歩いていく。馬もそうでした。私たち本土の者が、「沖縄の人達を変える」 という、そのようなシステムを取ったのだということを思いしらされました。

 日本に戻りたい
 私はその夜、泊まっていたホテルの近くで、仕事が終ってから一杯飲みに出かけました。沖縄では沖縄でだけ製造されているオリオンビールというのがあり、非常に軽くて飲んでも酔っぱらわないのです。私はその飲屋のおかみさんに「本土復帰の後、どういうふうになりましたか」と聞きました。すると、「日本国憲法が私たちの暮らしの中に入ってきたからね」と言いました。私たちには、日本国憲法について取り立てて議論をするとか意識の中にあがるということはまずないわけです。沖縄では一般の民衆、一般の人たちは、昨年の九月以来「婦女暴行事件」が話題になり、米軍が沖縄に駐留してどのようなことが起こってきたかということを皆が身にしみて感じています。沖縄では日本国麗法がある日本に戻りたいという復帰運動が強く行なわれました。

 沖縄の二坪の土地
私が教会の牧師をしていた頃のことです。沖縄キリスト教短期大学という大学があります。本土復帰前に沖縄キリスト教短大となりました。ところが本土に復帰したところ、日本政府の文部省の規程に合う大挙にしなければならない。キャンパスがどれだけ、教室がどれだけ、そして本がどれだけというような文部省の基準に合わせなければならない。沖縄キリスト教短大は非常に手狭なキャンパスであつたために、どうしても新しく校地を求めて移転しなければならない。そのため一坪を寄贈して欲しいという全国キャンペーンが教会関係に出されました。私は少しお金があったので、一坪寄付することができました。そういう意味では、後からお話をしますが二坪の土地を沖縄に持っています。
 私は同志社に来る前に、以前勤めていた短大で、何回か学生と一緒に沖縄にスタディツアーにまいりました。沖縄ではバスのガイドさんも、かなり沖縄の歴史や戦争のことについて詳しく知っていますが、さらにお願いをしまして、「平和ガイドの会」という沖縄のことについて詳しい人達がボランティアで作っている会の人達を通して、今回いささかマスコミに出過ぎでありますけれど、読谷村(ヨミタンソン)の知花昌一さんが昨日、自分の土地に入ったわけですけれど、何回かは知花さんにお話しを聞いたことがあります。そういう形で沖縄戦の歴史を学び、そして沖縄の実情を知りました。夜は夜で、沖縄の牧師さんたちにお願いしまして、米兵を専門に扱っている基地の目の前のバー街に出掛けていって、女子学生と一緒にバー街に入ってみました。また、沖縄の女性と米兵との間に生まれた「ハーフ」、厳密には最近では「ダブル」ということでありますけれど、沖縄の人達からもスポイルされ、またアメリカの人達からもスポイルされている人達、彼等によって生み出されていったオキナワンズロック、そういうハードロックの店にも、何回か行きました。

 「命こそ宝」
 沖縄キリスト教短大の学長さんからもお話を聞くことができました。大城実先生ですが、大城先生は右足がありません。沖縄戦の時、十才でありました。彼は爆撃で足を失ったわけです。大城先生は、いわゆる「沖縄戦」終了後、米軍のチャプレンの支援を受けて、奨学金をもらって勉強を続けることができました。さらに奨学金をもらって、アメリカのハワイ大学に留学し、そこでアメリカ人の白人の女性と結婚して、沖縄に戻り、そして牧師となって、沖縄キリスト教短大の学長となられた方です。
 大城先生は、自分の恩人であるアメリカの基地に対して、反基地運動、平和運動、反米軍運動をずっと続けて来られました。そういう人達との話を聞くことを通して、沖縄の歴史というものをどんどん深く知るようになりました。
 沖縄では最近、首里城が修築されました。真赤な朱色の大きな建物です。
 そのすぐ側に、沖縄県立博物館があります。その沖縄県立博物館に入ってすぐのところに大きな釣鐘が鎮座しています。それは慶長年間といいますから、ずいぶん昔のものでありますけれど、釣鐘に碑文があります。その碑文のなかに、歴史的に沖縄は武器を持たないで、平和裡に南の海洋民族として、交易によって非常に栄えてきた島であるということが書かれています。
 沖縄は琉球王国でありました。明治維新になって日本国に編入されました。この琉球王は、薩摩から日本軍が、「琉球は日本国土である」ということを宣言して攻めてきましたときに、戦いを好まず、「命どう宝」、つまり「命こそ宝」と言って、戦争すればどっちみち沖縄は負けるけれども、沖縄が負けても薩摩の明治政府の兵隊も傷つくであろう、戦を止めようということで『命どぅ宝』と言って、彼は那覇から東京に移されて東京で死にました。私たち本土にいる人間は、そういうことについては殆ど認識がないのです。
 それ以来沖縄では日本国民化、つまり皇民化教育がどんどん進められていき、そして沖縄方言も禁止されていきました。そして皆さんがご存じのように沖縄戦があり、一九七二年まで米軍の支配、米軍の統治が続きます。

 「日本軍は私たちを守ってくれなかった」
 私のよく知っている一人の沖縄の牧師がおります。平良修先生です。彼は、沖縄のキリスト教会の代表だった時期があります。アメリカから高等弁務官が着任してきましたときに、沖縄キリスト教会の代表者であつたために招かれて、その就任式のなかで祈祷を捧げるように求められました。その時にその平良牧師は、その華やかな、賑わしい就任式の席上で、沖縄の歴史を祈り、そして異民族支配を祈り、今度の高等弁務官が最後の高等弁務官になりますように、という祈りをしたのであります。
 ひるがえって考えてみますと独立国であつた沖縄が、琉球が、日本国になり、そして二十七年間の米軍の歴史を経て、そしてふたたび日本となった。
 ですから二十七才以上の人達は、国籍が日本、アメリカ、日本と変わった、そういう歴史を持っています。「ひめゆりの塔」で有名な沖縄の南部の摩文仁(まぶに)と言うところに、各都道府県が慰霊碑を作っているところがあります。慰霊碑銀座と言われるぐらい、多くの慰霧碑が建っています。各都道府県が沖縄で亡くなった郷土の兵士を慰霊して建てた碑です。平良牧師は、その碑文を全部丁寧に筆写しました。例えば京都なら京都、大阪なら大阪の郷土の兵士、自分達の父親であったり、叔父であったり、そうした郷土の兵士が沖縄に出ていって、そして沖縄戦で死んだ。そういう戦死者達を慰霊している慰霊碑の碑文を全部丁寧に筆写いたしました。そして批判をしました。
 「日本を守るために死んだ」。しかし沖縄の人達にしてみると、「日本軍は和たちを守ってくれなかった」というこの思い。私は沖縄のタクシーの運転手と話をしましたとき、「自衛隊」のことについて話題にしましたところ、「自衛隊」と言わないで、「日本軍」といいました。歴史の中で、日本軍は沖縄の住民を守らなかった。また、フィリピンやビルマや東南アジア山帯で、当時、大東亜共栄圏といった地域で死んだ人達の歪も合わせて、ここにまつるというような碑文になっている。戦後になっても未だに、本土の意識から見れば「沖縄は日本ではない」という意識がそこにある。ましていわんや戦争責任についての意識はまるでない、そういうことを碑文から分析されております。

 人間の鎖
 私はもう一つ、二つ申し上げたいと思うのですが、五、六年前ですが、とても馬鹿なことをしました。まだ私も若かったと思うのですが、沖縄に日帰りをしました。朝一番の飛行機で飛んでいって、時間が無かったので、夕方までいて最終の飛行機で戻ってきました。なんのために沖縄に日帰りしたかといいますと、嘉手納(かでな)基地という東洋最大の空軍基地があり、周囲が二十キロあります。その嘉手納基地を、沖縄の人達で人間の鎖を作って、基地を包囲するというプログラムがあると聞いて、矢も楯もたまらず沖縄に日帰りをしたわけです。一時ちょうどに、最初は嘉手納基地に向かって「人間の鎖」を作る、一時十五分には背中になって基地を包囲する、三回目、一時三十分にも基地を包囲する。そういう私たちの上にも飛行機が飛び上がっておりました。これに参加をしました。

 一坪一万円
 そのなかで平良牧師から、反戦地主を求めているということを聞いたものですから、私は是非反戦地主にさせて欲しいと申し出ました。ちなみに申し上げますと一坪反戦地主というのは、一坪一万円であります。その会の運営のために年間二千円。ですからその気になれば皆さん方でもできることです。平良牧師に会ったときに、私は今の太田知事が知事になったことを知っておりましたので、太田知事をどう思うかと聞きましたところ「駄目だ。実行力がない」といって彼は批判をしておりました。しかし、昨年の九月以来の太田知事の歩み、立居振る舞いというものは、皆さん方もご承知のように、単に政治というものが駆け引きでなされるもので゛なくして、極めて原則的、根本的な問題に目を向けていることに気がつかれると思います。

 なまこの目
 もう一言、違う余談の話しを紹介したいと思います。私はインドネシアの歴史も少し勉強しています。沖縄の那覇の少し南側に糸満(いとまん)という町があります。そこの漁師は歴史的にサバニという小さな舟を使って東南アジア全域まで舟を漕いでいっていた、つまり交易をしていた人達でありました。一年半ほど前に亡くなった龍谷大学の教授でありました鶴見良行という先生が「なまこの目」という本の中で紹介しているのですが、鶴見良行という先生も地べたを這いずり回るようなかたちで歴史を研究されてきました。わたしも非常に深く影響を受けた一人です。
 「なまこ」はどこで取れるか。オーストラリアの北、インドネシアの南のアラフラ海でもとれるのだそうです。オーストラリアには先住民のアボリジニがおります。インドネシアのスラウェシ島にはブギス族という海洋民族がおりまして、どこでも舟でいってしまいます。大昔、ブギス人がアボリジニのところに行って、平和裡に交易をし、交流をし、モンスーンによって、干なまこを貰ってきて、インドネシアにもってくる。そしてフィリピンに持っていく、そのインドネシアやフィリピンにも糸満の漁師が行ってくる。その糸満の漁師を経由して、ブギスの人達を経由して、中華料理の食材となっていた。まさに海は「隔ての中垣」ではなくして、貿易の道であるという認識をもつことが東南アジアを学ぶときに非常に重要なキーワードです。そういう歴史が沖縄の中にもあつた。そのような歴史を少しずつ学んでいくなかで、そういう人達との出会いを通して、聖書が語るメッセージ、聖者の語るテーマというものと、私達のものの見方、私達のあり様を考えさせられるわけです。

 相手の生き方を換えさせる構造
 先ほど読んで頂きました「マタイによる福音書」は、非常に有名な箇所であります。皆さんも何度かすでにお読みになり、聖書のメッセージの中で思いをひそめることがあったことと思います。沖縄の人達の基地の問題に対しても、「普天間(ふてんま)の基地が無くなりさえすればいい」ではなくして、どこかに他のところに移駐するとか、あるいは岩国に移るとかいろんなことが言われています。 沖縄の人達は、「自分さえよければそれでいい、自分の目の前にある問題さえ解決されれば、そのしわ寄せはどこにいってもいい」、そういう問題の建て方をしてはいません。「自分達だけがよければ」ではなくて、「共に」という普遍的な「質」を沖縄の人達は持ち続けてきているように思うのです。
 それは、キリスト教のメッセージ、キリスト教の考え方でいいますと、キリスト教の人間理解というものは、通常、人間は「罪」だと言います。これは私たち日本人にはなかなかわかりにくい概念だろうと思います。普通、罪人(つみびと)、罪人(ざいにん)、クライム、というと犯罪者ですが、神の前に人間が「罪人(つみびと)」であるというのは、ややもすると心の中の問題、心の中に汚れた思いを持つという観念的な問題として取り扱いがちであります。もちろん宗教は、心の問題であったり、魂の問題に直接関わります。それはそれとして、単に抽象的な観念の問題、罪の問題は観念の問題ではなくして、私は優れて「関係」の中に起こってきていることだと思うのです。そういう意味では、私たち本土に生きてきた人間が、経済成長であるとか、様々な豊かさを確保するために、「相手にあり様を変えさせている」ことによって成立しているということを沖縄を通して知ることができます。
 「罪」ということばをご存じの方も多いと思いますけれども、ギリシャ語で「ハマルティア」、第一の意味は、神の意志への反逆、一人ひとりの人間に命があり、一人ひとりが使命があり、一人ひとりが豊かに平和に行きていくように、そのようなことが神の意志であるにもかかわらず、自分達の現実の中には、自分の平和のために「相手を変えさせる」という構造があることにまず気がつきます。
 もう一つの意味は、「俺は知らなかつた」というふうな形で、的を外すという罪の構造、「ハマルティア」の第二の意味は「的を外す」という、問われた問いに対してはぐらかす、問われた問いに対して責任転嫁をしていく、あるいは政治学の問題でいうと日米安保条約は国際政治、安全保障の問題として一般化をしていく、それは学問の上で、あるいは政治の上では大切なことであろうかと思いますけれど、私はあえて政治学の問題、日米安保条約のうんぬんの問題ではなくして一人の人間が、沖縄の人間が、沖縄の地域の人達が、わたしたちの本土にいる人間のために、「相手の生き方を変えさせる」、「自分のために相手を利用しようとする」、このような生き方の問題はまさに宗教的な信仰的な問いの立て方だと私は思っています。

 何がもっとも大切なことか
 さらにそれらのことについて考えますときに、私たちは宗教的な意味で、キリスト教の重要なメッセージであり、概念であります「悔い改め」ということ、この「悔い改め」ということばは、「メタノイア」という言葉でありますけれども、これは「悪かった」、「悪いことをした」ということでとどまることではなくて、言葉の本当の意味は、「優先順位を組み替えていく」ということ、何がもっとも大切なことか、自分達の生き方や自分達の暮らしのあり様や、そういうものを具体的に優先順位を組み替えていく、このことがキリスト教でいう「メタノイア」、悔い改めの意味であります。

 「沖縄」のもっている意味
 私はそのことを沖縄の関わりの中でいつも問われるように思うのです。私たちの今の 「あり様」を問うていることに、問われているということに対して、時に沖縄の人達がエキセントリックにそのことを問うことがあったとしても、一般的にいえば、沖縄の人達は非常におだやかに問題を立てて、原則的に、私達に呈示してきている。そのことを私たち現在の暮らしの中で、問われる思いがいたします。
 私はどう関わればいいのだろうか、どう生きていけばいいのだろうか、そして信仰の問題の湯合は、単に抽象や観念の問題ではなくして、具体的な人と人との関わりのなかで起こっていることに気がつきます。沖縄から今も問われていること、そして私達一人ひとりの生き方も、この中で問われていること、特に私たちキリスト教をテーマに考える者にとつて無視できない、沖縄の持っている意味をしばらく一緒に考えてみました。

1996年5月15日、水曜チャペルアワー