神学部の学生たちとのタイ・スタディ・ツアー

 わたしは今年も9月1日から16日まで学生たちとともにタイを訪れた。同志社大学神学部からは3回目となる。 わたしは前任校の新島学園女子短期大学の在任中の1985年以来、毎年、学生とともにタイ・スタディ・ツアーを行ってきた。このようなプログラムを始めるようになったきっかけは、同志社大学神学部の先輩の一人であり、日本キリスト教団の宣教師としてタイの唯一のキリスト教総合大学であるパヤップ大学の神学部に10年間働かれ、その後恵泉女学園短期大学の教授になられた望月賢一郎先生のアドバイスによるものである。わたしは学生とともにタイに行くようになってから、彼の地で実に豊かな多くの出会いを与えられた。それはわたし自身の学問的研究の態度、視点、方法にも、また信仰的にも、深い影響を与えられた出来事であったからである。同志社に移ってからも、わたしはタイでの経験とそこで蓄積された財産を若い学生諸君とともに分かち合いたいと願い、同志社では神学部の学生がこれに応えて自主的なプログラムとして続けられてきた。それは学生たちにとって、タイで体験した事柄、出来事は、かれらの生き方、学び、信仰、神学の研鑽に意義深いものと確信しているからであり、わたし自身も彼らの前に立つ一人の教師として、若い学生諸君とともにこの経験を味わうことができるからである。
 10数年前から日本で始まったアジアに対するエスニックブーム以来、東南アジアへの距離感はかなり近いものになってきているが、しかしわたしにとってはこのツアーで体験した事柄や人々との出会いは、ブームという言葉で言い表されるような、表面的なことや一般的なものではない。わたしたちのタイでの体験は、わたしなりにいえばタイにおける、タイ人、山岳民族の人々、タイで働いている日本人、そして参加したわたしたち同士の「出会い」である。ここでいう体験とは、つまり「通過」してしまう旅行者としてのそれではなく、「出会った」ことによって、わたし自身が、そして参加した学生自身が「変えられる」という、主体的な人格的な出来事としての意味である。そしてもっと踏み込んでありていにいえば、それは人間観、世界観、そして信仰の出来事や神学的問いにつながる事柄と考えている。

 今までと同様、今年もわたしたちはタイの首都バンコクを経て北部タイのチェンマイにあるパヤップ大学マックギルバリー神学部を訪れた。学生たちはこの神学部の学生寮に宿泊し、交流の時を持ち、また昼間は授業に参加した。神学部の先生たちは同志社の学生のために授業をしてくださった。いうまでもなくタイは仏教国である。タイ国憲法によれば、信教の自由は保証されているが王室は仏教の守護者であることが規定されている。そのような仏教国であるタイ社会で少数派として存在しているクリスチャン。そして同じく少数派である日本のキリスト教。それぞれがともに神学を学ぶことの意味について、またそれぞれの社会で生きることについて語り合い、学びあうという体験をした。
 また過去10数年のアジアの奇跡といわれるほどの急成長をとげたタイの経済社会の中で、しかしその繁栄からは取り残され、逆にその生活の急激な構造的転換を強要されている北タイのビルマとの国境に近い山岳地帯に住んでいる人々の村を訪れ、数日の間、暮らしの中に加えてもらった。この山岳地帯一帯を含め、タイ国内には79万人にのぼるカレン、アカ、ラフ、リソーなどの諸部族が独自の文化、言語を持って生活している(チェンマイ大学教育学部の調査報告)。歴史的には中国やネパールからビルマを超えて焼き畑を繰り返してタイ国内に住み始めた彼らは、タイ側からみれば不法侵入者であり、当然国籍もなく、また多くはタイ語も解せず、電気や水道もない、その意味では非文明的な暮らしを続けてきた。しかも雨期になると山岳地帯では道がぬかって数カ月は文明社会との交通は遮断される。そしてタイ政府による森林伐採の禁止や、彼らにとっては換金作物として栽培されてきたケシの栽培も禁止され、従来は貨幣に依存しない暮らしであったのが、現在、急激なしかも困難な転換を迫られている。その山岳民族の村を訪れ、ともに食卓を囲み、礼拝を守った。彼らの部族のなかには村全体がクリスチャンであることが多い。これは彼らが中国の雲南省にいた時にキリスト教の宣教師に出会って、村ごとで集団改宗した結果である。いくつかの部族は文字をもたなかった。そこで宣教師たちは彼らにアルファベットを教え、彼らの言語を学んで聖書を翻訳した。このような村の教会で、今年もわたしは説教する機会が与えられた。英語からタイ語、そして部族語という3段階の通訳が必要だったこともある。今年は山岳少数民族であるラフの牧師の司式によって聖餐式に与った。これは長いわたしのタイでの経験でも初めての経験したことである(写真[1]参照)。パン屋があるわけではない山の中でビスケットのかけらと赤く甘いジュースによる聖餐式、これは得難い経験であった。
 タイ国籍を持たずタイ語を解せないかれらにとって、重要な問題のひとつはこどもたちへの教育の問題だ。教育の機会が保証されていないかれらにとって、ただでさえ貧しいなかで何とか子供たちに教育を与えたいと小学校からチェンライ郊外にあるアメリカのバプテスト教会によって40年前に設立された学校に子供を送る。わたしたちはこの学校を訪ね、学生たちはこどもたちに授業をし、またともにスポーツをし、ともに食事をするなどの交流の機会が与えられた。こどもたちは山の村ではそれぞれ部族語による生活をしてきた。しかしこの学校はタイ政府から公認されている私立学校である。だから当然のことながら共通語はタイ語でありタイ語で生活しタイ語で授業がなされる。山にいる親たちの収入は、近年、換金作物として栽培するようになったトウモロコシ、ショウガなどによって、平均年収約35000円から40000円である。中学生一人の年間にかかる授業料、寮費などは約25000円ほどだ。これは親からみれば大きな経済的負担であることはいうまでもない。そしてこの学校では自分たちの民族伝統をしっかりと保持することが重要な教育方針となっている。彼らは好むと好まざるとによらず、タイ社会でタイ人とともに生きていかねばならない。つまり「タイ化」せざるをえないのだ。その時、自分が何者か、ということをしっかりと意識化させようというのだ。わたしはこの学校の存在とその教育方針に深い感動を覚え続けてきた。
 そして、そのようないわばタイの辺境の地にも日本人がいる。二つのタイプの日本人だ。ひとつは文化人類学などのフィールド調査のためにタイの大学に籍をおいて山に入る若い学生たち。もうひとつはこれら山岳民族を支えるべく活動を続けている日本人NGOの人々。後者の多くはビザの問題などにも本当に苦労しながら青年の自立やこどもの教育に奮闘している。わたしたちはこれらの施設を訪ね、交流を重ねた。そしてオールタナティブな生き方をしている日本人から刺激を受けるのだ。
 また50年前に共産化した中国から逃れてきた中国国民党の残党で、かつては難民であって現在タイとビルマの国境の山の中に住み続けている中国人の村、いや村というのは当たらない、人口は1万人を超えているのだから、もはや町、を訪ねる。ここを訪れる日本人はほとんどいない。中国からきた彼らとは漢字による筆談が可能である。(メーサロンというこの町については最近のテレビでチェンマイで死んだテレサ・テンが、この町に非常な関心を持っていたことを知らされた)。
 北部タイの旅を終え、今度は歴史の生きた教材に出会う。アジア太平洋戦争時に日本はタイと軍事同盟を結んだ。しかしこのタイでは、戦時下にビルマとタイの間のジャングルを切り開いて鉄道を通した、あの「泰緬鉄道」建設のために多くの連合軍捕虜、またその他「労務者(インドネシアではロームシャという言葉が辞書に残っている)」がアジア各地から強制連行され、多くの人々がここで死んだ。かれらの命によって建設された鉄道は現在も利用されており、わたしたちはこれに乗り、そして連合軍兵士の一人一人の名前が掘られている墓地、そして捕虜収容所を復元した博物館を訪ねる。この博物館の名前は「JEATH博物館」という。JはJapan、EはEngland、AはAmerica、TはThailand、HはHollandを表し、の頭文字を表し全体としてはDEATHはDEATH、つまり「死」に引っ掛けている。

 以上、述べたことでわかるようにわたしたちのタイでの体験は、一言では説明し表現しできないほど、多様で、深く、そして重い。たとえタイの人々の表情が微笑みに満ちたものであっても、その背後にある、彼らの個人としての努力などではいかんともしがたい現実の課題の中で生きていかねばならない重さを知らされる。その時、わたしは彼らにとって「何者なのか」という問いを避けるわけにはいかない。旅行者ならば「通り過ぎていく」ことができるし、そして自分の都合を考えて、あるいは計算して「道の向こう側を通って行」(ルカによる福音書10:31)ってしまえばよい。この言葉は新約聖書のなかの有名な「善いサマリア人」の譬え話しである。一言でいえば行為の伴う信仰が求められているのである。いい経験だった、これもまた一つ、あれもまた一つ、の経験なのだから。そしてわたしたちは日本のわたしたちの日常に帰ってくればいいのだから。かつてチェンマイのYMCAの総主事と話していたときに、彼は「現在のタイの社会で最も必要なことは、『善いサマリア人の神学だ』」と端的にいったことをわたしは忘れない。そしてわたしたちは、タイで多くの人々、出来事に出会った。出会った以上、わたしたちの内に変化が起こる。そしてどうすれば文化や言語、政治、経済、その他多くの点で違いがあり落差がありながら、なおともに生きていくことができるかを問い始める。わたしはこれは本当に生きた神学の課題、神学的問いだと考えている。 そしてわたしたちはこれにそれぞれが答えを出すことが求められている。わたしはこれを「応答」(response)という。そしてそれは「責任」(responsibility)につながる。
 毎年、帰国直後にわたしは空港で学生に言う。「さあ、これから始めよう」と。本当はわたしたちはタイの辺境の地まで出かけなければこのような課題と出会えないのではない。この日本の暮らしの中でわたしたちの生き方を問うことのなかからでも出会うことのできる事柄であり出来事であることを発見し、日本でいかに生きていこうとするかというオールタナティブな出来事を認識することである。例えばタイの山岳民族の問題は、歴史的事情はまったく異なっているが日本社会のなかではアイヌの問題、つまりこれはアイヌの問題ではなくわれわれ日本社会の問題であることへと視点が開かれていくことだ。歴史的に文化的に限りなく同質性を求める私たち日本の社会では、「国際化」を叫びながらも多様性を認めることについて、また他者とともに生きていくことについて実に多くの障害があり困難がある。わたしは一方でこれを日本の「国際化」の問題でありつつ、しかし他方、信仰的、神学的課題が含まれていると考えている。これを学生とともに体験しながら学ぶ。これがタイ・スタディ・ツアーである。

同志社時報