西日本同信会・公開講演会                   2007年8月27日
「会衆主義から見たサクラメント-宣教の課題として」

原         誠
同志社大学神学部

(1)はじめに-課題と問題意識
現在の日本基督教団の動きや教団議長の言動について、近年、憂慮すべきものがある。例えば、今年の教区総会において配布された議長の文書や新任教師オリエンテーションで配布された文書などでも、1967年の教団が議長名で公にした「第2次大戦下における日本基督教団の責任について」(いわゆる「戦責告白」)以後、現在までの40年について「荒野の40年」と表現している。
新任教師オリエンテーションで語られた内容は、以下の通りである。

  1. 信仰告白をあいまいにし、相対化したこと。
  2. 聖書の正典性に揺らぎをきたしたこと。
  3. 教憲・教規に逸脱する決議や行為が見られ、聖礼典が正しく執行されない現実があること。
  4. 教師検定試験の基準があいまいにされたまま実施されたこと。
  5. 言論の暴力・物理的暴力によって礼拝、会議制が蹂躪されたこと。
  6. 東京神学大学機動隊導入に関して、一方的断罪を行い、教団立神学校との関係が正常化できないでいること。
  7. 万博キリスト教館問題で混乱をきたし、関係者に犠牲を強いたこと。
  8. 教団財政が不透明、不適切になったこと。
  9. いわゆる「戦争責告白」の教会的位置付けを明確にし得なかったこと。
  10. 「合同のとらえなおし」における「実質化」を実現できなかったこと。
  11. 関係学校、関係諸団体の信頼を失ったこと。
  12. キリストの伝道命令に不忠実であったこと。

なぜこのような表現になり、またその背景にある神学的理解と認識はどのようなものであるのかについて、「合同教会」である日本基督教団の重要な一角を占め、またこれに貢献しようとしてきた旧組合教会(会衆派)が継承してきた教会理解、ひいては典礼理解とは何か、その神学的根拠を問いたい、ということが主催者からの要望であった。われわれの現場や教団は、うめき、悲鳴をあげつつあり、現状を放置できない緊急性を今、感じている。昨年の同志社神学協議会でのわたしの講演「ルーツからヴィジョンへ〜合同教会における会衆主義の課題と可能性〜」も、今一度、読んで欲しい。
加えて『同志社時報』の最新刊、大林先生の「会衆主義とは何か」に関する非常に優れたコンパクトとにまとめられた文章がある。是非、読んで欲しい。
当初、わたしに要望された主題は「会衆主義から見たサクラメント」であったものを「-宣教の課題として」を追加していただいた。その意味は、結論を先に言えば長老派、メソジスト、組合派(会衆派)のどれをとっても、教派神学的には「未受洗者への配餐」は、その根拠はない。これを前提としなければならない。したがって副題とし「-宣教の課題として」ということを念頭において、わたしの責任をはたしたい。
今日、直接的に問題とされていることは「聖礼典の乱れ」、あるいは山北議長の言葉で言えば「教憲・教規に逸脱する決議や行為が見られ、聖礼典が正しく執行されない現実があること」という表現で表されている事柄について、問題点を指摘しておく。
「サクラメント(聖礼典)」とは、プロテスタント教会においては聖餐と洗礼である。そこで議論になりうることは、洗礼に関して言えば、幼児洗礼を認めるか、否か、ということであり、聖餐に関しては(1)未受洗者への配餐、(2)他教派教会での受洗者への配餐(オープン・コミュニオン)、(3)幼児洗礼を受け、未信仰告白(堅信礼)をしていない者への配餐、であろう。これに加えて聖礼典執行者の資格を巡る問題である。これについてはプロテスタント教会においては、按手礼をサクラメントとはしていない、という出発点があることを確認しておきたい。その上で、現在の教団の問題で言えば、聖礼典執行者である教職問題、すなわち二種教職制度に関する議論、だと思われる。これについては信徒も加えた共同司式がありうるか、ということも含む。
これらの諸点を踏まえて考えてみると、恐らく、洗礼式に関しては幼児洗礼を認めるか否か、他教派の信徒への配餐、未信仰告白(幼児洗礼受洗者)への配餐の諸点はあまり問題になっているのではなく、未受洗者への配陪を巡る議論、また正教師、補教師を巡る2種教職制、すなわちいわゆる補教師による聖礼典の執行の議論に集約されるのではないだろうか。
この際の議論の出発点は、われわれプロテスタント教会においては、最初に教職論があるのではなく、まず「信徒論」があり、そのなかにおける教会の職務の分担という事柄において「教職論」がある、という順序だ。
いうまでもなくカトリックの場合、神父に対してはサクラメントとしての叙階があり、そして使徒職の継承として教皇、以下枢機卿、大司教、司祭という職制がある。これらは目に見える世界と教会の権威を体現する根本的な教理である。これに対してプロテスタントは、神とキリストの信徒という考えであり、その信徒の形成する教会のなかで、職務分掌として教職を立てる、長老、執事を立てる、ということであった。とはいえ従来のカトリックと同様に神、そして教会、さらにその外周、周辺として、未信者、異教徒という構造があった。
この構造は、カトリックにおいては第二バチカン公会議以後、またプロテスタント教会はWCCを中心に、キリスト教中心主義ではなく、他の教派、他の宗教との対話や協力を具体的に模索していく中で、その根本的構造を神、教会、世界という単純な垂直関係ではなく、神、世界、世界の中の教会、という構造へと認識を変換させてきた。これを一言でいえばエキュメニズムという。

従来の世界観             エキュメニズムの世界観

      神                   神
      ↓                   ↓
教会(選ばれた民)         世界(神によって創造された世界)
      ↓              このなかに教会は和解の責任を
世界(非キリスト教徒)          (世に仕える教会)
(伝道して教勢の拡大)            (伝道)

この意味はプロテスタントもカトリックも、かつてのキリスト教世界と非キリスト教世界という単純2分法ではなく、非キリスト教世界との対話、協力を模索していくということであり、神の御旨がこの世と和解するためのイエスの十字架の死であったという出来事を示し、また他者、すなわち他教派、他の宗教、無宗教、他の民族、文化と共生、和解することこそ現代世界のキリスト者の使命であるといういわば宣教の視点、「ミッシオ・デイ」(Missio Dei)の神学を目指している。

(2)組合教会の「信仰職制」について
その際にわれわれの歴史的伝統である「組合教会」は、どうであったかを確認しておきたい。
1941年に教団が成立したとき、旧教派の約800教会のうち組合教会は154教会、40伝道所、合計194教会であり、組合教会時代の牧師は131名、主任伝道師29名、所属男伝道師22、女伝道師15、合計197名であった。教団全体に占める組合教会の構成比率は大雑把に言って25パーセント、4分の1の規模だった。それ以前の組合教会時代には『日本組合基督教会規約』や『日本組合基督教会諸式案内』があった。その「規則」や「案内」には、当然、現在、われわれが課題としている事柄に対して対応する規定はない。規定がないということは求道者(未陪餐)がおり、「信仰告白」をして、その後「洗礼」を受けて「教会員」となる、という理解であったということである。幼児洗礼に関していえば組合教会はこれを認めていた。バプテスト教会は個人に主体的信仰告白を重んじそれゆえに浸礼を主張していたので幼児洗礼という儀式そのものはない。幼児洗礼を受けた場合は、信仰告白(堅信礼)をしたのちに配餐ということになる。したがって、現在、われわれが課題としている問題について、組合教会の「信仰職制」にその論拠を求めることはできない。このような視点は、組合教会のみならず、他の例えば長老派、メソジスト派においてもそうである。

(3)「日本基督教団」の「教憲」と「教規」について
では教団ではどうか。
「教憲」(第8条)聖礼典はバプテスマおよび聖餐であって、按手礼を領した教師がこれをつかさどる。(第10条)本教団の信徒は、バプテスマを受けて教会に加えられた者とする。
とある。
また「教規」で関係する項目は、第4章、教会および伝道所、(教会担任教師)で、
第104条、教会担任教師は、次の教務を執行する。ただし、伝道師は、第2号を執行することができない。(1)礼拝、伝道および信徒の信仰指導、(2)聖礼典の執行(3)結婚式、葬式その他の儀式、というものであり、ここでは聖礼典執行に際しての対象者、未受洗者についての規定はない。
第6章では、以下の条項が関わる。
第134条、信徒とは、教会または伝道所に所属し、その会員名簿に登録された者
とする。
第135条、信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない。ただし、未陪餐会員のない教会ではこの限りではない。
第135条、陪餐会員とは、信仰を告白してバプテスマを領した者、または未陪餐会員で堅信礼または信仰告白式を了した者をいう。
ここでも陪餐に関しての対象者、つまり未受洗者に関して配餐してよいかどうか、いけないかどうかの規定はない。
また「教規」(第4章  教会)では、教会総会や役員会で、「礼拝および聖礼典の執行に関する事項(教規第102条)がある。これは聖礼典執行が牧師のみに決定がゆだねられているのではないことが明らかである。
そこでこれが規定として出てくるのは、各個教会の規則である。
「日本基督教団○○教会」規則(準則)
信徒

  1. 聖餐にはバプテスマを受けた信徒があずかるものとする

幼児バプテスマを受けた者は、信仰告白式をおえるまでは聖餐にあずかることができない
このようにしてみると、山北議長が主張する「信仰教憲・教規に逸脱する決議や行為が見られ、聖礼典が正しく執行されない現実がある」という指摘は、「教憲・教規」に関してではなく、各個教会の「教会規則」に関わることになる。
そこで今まででもこの種の問題は提起されており、信仰職制委員会がこれを取り扱ってきたのでこれについて資料として整理しておく。
『教憲教規の解釈に関する先例集』(改定版)2002年9月によれば、55.準則第8条について。〔教規第85条〕
1992年3月19日付後宮俊夫総幹事事務取扱よりの諮問に対し、1992年3月25日付、以下の通り答申した。
<諮問>A伝道所から1992年1月10日付で提出された教会設立承認申請書が教区総会議長の承認(同年1月14日付)を経て教団事務局に送付されてきました。しかし「教会規則」第8条については事務局の判断を越える内容を含んでいると思われますので信仰職制委員会の見解をおたずねいたします。
<答申>A教会の教会規則について、当委員会として検討しました。同教会規則第8条①の「聖餐には‥イエスをキリストと信ずる者があずかるものとする」の部分において「信ずる者」と判断する基準が不明確であり、教憲教現に照らして認めることは困難であると考えます。
このように「信ずるもの」の規定は、さまざまな解釈を生み出しうる。さらに、
56.教会規則準則第8条削除について。〔教規第85条〕
2000年5月10日付竹前昇給幹事の諮問に対し、2002年1月16日以下の通り答申した。
<諮問>このたび、M教会より教会規則変更承認申請書の提出があり、同教会規則第8条削除をその内容としています。第50条には、「この教会規則に定めがないことは、教団の教憲、教規ならびに諸規則によるものとする」との条文が残されてあります。この変更は、教規第85条の艶囲内と判断することが出来るでしょうか。
<答申>この変更は、教規第85条の範囲内と判断することは出来ません。
(理由)
(1)『日本基督教団 教憲教規および諸規則』に登載された「日本基督教団00教会規則」は準則であり、各教会の実情に合わせて適宜増減、変更することは可能ですが、教憲教規に定める教会の基本条項に関しては、これを教会規則に保持すべきものであることは言うまでもありません。
(2)規則第8条はこの基本条項にあたるものであり、各個教会の裁量によってこれを削除することは適当ではありません。
(3)教会規則第50条は「補足」として置かれたものであり、教会規則において定めるべきことは、出来る限り「本則」にこれを網羅した上で、尚これに定めのない事柄において教憲教規ならびに他の諸規則の規定とその精神に照らしてこれを処理するという趣旨の規定ですから、規則第50条をもって「本則」に定めるべき事柄を削除することの補完とみなすことは出来ません。
とある。その意味は、各個教会の規則は、ある程度の自由な判断によって各々の教会の独自性を規則に書き込みうるとしながら、その自由裁量の幅は「基本条項」を超えてはならないというのである。しかしそこでいわれる「基本条項」とはなにか、ということについての説明はない。
組織体としての日本基督教団は、宗教法人として包括関係にあり、このなかで「教憲教規」には、陪餐に関しては明記されていないものの、「教会の基本条項」という概念で、各個教会の規則が規定されている、ということになる。

(4)日本基督教団の信仰告白制定の過程での議論
ここで取り上げようとしていることは、「サクラメント(聖礼典)」に関わることであるが、教会にとってもっとも基本となる「信仰告白」をめぐる議論を今一度、整理して踏まえておきたい。それは後で述べる教団が「合同教会」である、ということの理解に関わるからである。以下『教団史資料集』(第3巻)「解説」によれば、
教団に留まったすべての教会が一致して一直線に一つなる教会の形成に向かったわけではなかった。旧教派の伝統は根強く残っており、信仰告白に関しては、信仰告白は教会存立の基礎であって信仰告白をもたない教会はあり得ないとするもの、また信仰告白の主体を各個教会に求め、全体教会の信仰告白はその最大公約数にすぎないとしてその拘束性を認めないもの、成文の信仰告白をもたない立場のものなどが、寄り合っていたわけである。また会議制は、監督制・長老制・会衆制と並ぶ第四の制度ではなく、この三つに共通する公約数的な、したがって三つのいずれにも受け取ることができるようなあいまいなものであった。こういう状況の中で、教団は会派問題に取り組みつつ横構を改革し、信仰告白を制定した。(143ページ)
また、
信条委員会は、信仰告白草案(資料37)を作成し発表したが、これも同様に草案で終わってしまった。それは主として、教団が信仰告白をもつことについての合意形成が不十分であり、したがって草案提出は不適当と委員会が判断したためである。信条委員会は、第5回教団総会(1948・10・27-29)に、信仰告白草案の代わりに教憲第2条修正案(資料38)を提出し、これによって教団は、使徒信条を告白することとなり、信条を持つ教会となった。
第5回教団総会は、15名の機構改革委員を選挙し、第4回教団総会の教憲教規制定によって定められた教団機構の改革に関する立案を託した。機構改革委員会は公認を要求してきた会派の問題をも取り扱って「会派問題に就ての報告(会派問題報告書)」(資料31) を作成したが、教団機構については教団組織の民主化、中央機構の簡素化、教区権限の強化を骨子とする「教田機構改革案要旨」(資料40)をまとめた。
改革案は第6回教団総会(1950・10・25-27)に提出され、可決された(資料41)。これによって教団の組織が一応整備、確立され、1951年4月1日に発足したこの体制が1968年の機構改正まで続くことになった。
けれどもこの機構改革において会派が公認されなかったことによって、これを不服とする旧日本基督教会系の一部教会が離脱(資料34)を始めた。その理由の中には信仰告白問題が大きな部分を占めており、使徒信条を告白するだけでは福音主義教会の信仰告白になっていない、拘束力のある福音的信仰告白をもたない教団は教会ではない、ということが強く主張された。これに対して会派問題特別委員会はこの事態を収拾すべく「『会派問題報告書』に就ての解説」を作成した。さらに第三回常議員会(1951・3・14-16)はこの解説の承認に際して「信仰告白制定に向かって努力する」との付帯決議をし、この決議に基づいて信仰告白制定特別委員会が組織された。同委員会はまず教団内における信仰告白についての現状を調査し、信仰告白についてのさまざまな立場を19項目に整理した。1952年2月から信仰告白文案の作成作業に入り、文案を第7回教団総会(1952・10・21-23)およびその後の常議員会、常任常議員会、各教区総会に報告し、各方面からの意見について協議して、1954年に最終案を完成させた。そして第8回教団総会において「日本基督教団信仰告白」が制定された。
(資料39)教憲第2条修正案の可決
第2日。
『本教団は旧新約聖書を神の言にして、救いの要道を悉く載せるものなりと信じ、使徒信条を告白し、其の他の基本信条及福音的信仰告白に準拠す』本議案に対し吉田隆吉氏は『使徒信条を告白することは拘束力を有するか』岸本貞治氏及び平賀徳造氏は『処女降誕を信ずべきや。又その解釈が違ってもよいか』等の質問をなし、之に対して信条委員村田四郎氏は『使徒信条を告白することは拘束力を有する。又、処女降誕については度はずれた神学的解釈は許されない』と答弁。
松木治三郎氏は『教憲第2条の修正は本教団が信条を持つようになったと理解してよろしいか』との質問をし、同委員長は『然り』と答えた。
討論採決の結果総評総数172票中賛成164票の大多数を以て原案通り可決した。(152-3ページ)日本基督教団史  (171ページ)
要するに戦後、教団を離脱した教会があり、残った教会が「合同教会」である日本基督教団を形成する決意をもったその段階で、「信仰告白」を持たない教会は存在しえないと主張する長老派系の主張を受けて「信仰告白」は制定されたものの、その「位置づけ」、「解釈」は多様であった、ということであり、「信仰告白」が制定されたことをして、直ちに日本基督教団が「信条教会」となった、ということはできないという点を確認しておきたい。「拘束性」はあり、しかし「度はずれた神学的解釈は許されない」ということだ。
そこで根本的な問題として「信仰告白とはなにか」ということになる。信仰告白は、拘束、基準なのか、感謝、賛美なのか、という認識の問題となる。すでにご承知のように、メソジスト教会は、非信条教会であり、会衆派教会は、各個教会で信仰告白を持ち、長老派教会は信条教会である。日本基督教団は、以上のような経緯で信仰告白を制定したのであって、これをして教団が、長老派のいう意味での信条教会となったというわけではない。

(5)アメリカの会衆主義の伝統をもつ教会
ではわれわれにとっては、われわれのみならず日本の教派的伝統を重んじようとする教会はすべてと言っていいだろうが、アメリカの教派教会をモデルにしてきたので、アメリカの会衆派の教会を検討してみる。
昨年の神学協議会の時には、オーストラリア合同教会、タイキリスト教会、ラオス福音教会などの事例を紹介した。
アメリカには大雑把に言って、二通りの会衆派の伝統をもつ教会がある。ひとつは今日もなお会衆主義の教会として存在している教会と、もうひとつは会衆派の伝統をもって合同教会に参加している教会である。最初に論点を明らかにすれば、現代のアメリカの会衆派教会は、それとして他教派との関係において非常に閉鎖的であり、合同教会を形成している会衆派の伝統を持つ教会は、エキュメニカルでありオープンである、ということである。
われわれがもし日本基督教団を離脱して組合教会を再建するならともかく、私自身は合同教会であり戦争責任告白をする日本基督教団を形成することが使命であると考えているので、アメリカの会衆派教会がどのように合同教会を形成しようとしているか、検討したい。
アメリカでなぜ、合同教会が成立したか。『世界キリスト教百科事典』の「アメリカ」のなかに、次のような記述がある。
「組合教会」組合主義キリスト教徒は、ピルグリム・ファーザーズとともに、1620年にアメリカ大陸に来た。それ以来、組合教会の勢力はニューイングランド中心に展開した。1959年に、福音・改革教会(Evangelical and Reformed Church)、ドイツ系カルバン主義教会と合同して、キリスト合同教会(United Church of Christ)となった。福音・改革教会自身も、1934年に北米福音シノッド(Evangelical Synod of North America、1840年成立)と北米改革派教会(Reformed Church in the US、1730年にペンシルバニアのドイツ系移民により設立)とが合同して成立した教会である。キリスト合同教会の成立時には、会員の64%が組合教会系、36%が福音・改革教会系であり、組合教会主義と長老主義の統合をねらいとしていた。各個教会は完全な自治権をもつが、地域別教会連合、地区協議会、また全国レベルでは総会(general synod)も組織されており、重要な働きをしている。
このキリスト合同教会のホームページは、http://ucc.org/ で見ることができる。
要約して結論的にいえばキリスト合同教会は、エキュメニカル運動の影響と1950年代、例えば宗教右派と今日呼ばれるファンダメンタルクリスチャンの影響力がアメリカにおいて増大する中で、社会の問題を宣教の課題とするそれぞれの教派が一つとなり、共に歩むことを選んだということである。したがって教会合同の目的は「課題共闘」型である。だから、この教会のホームページの歴史の箇所、http://www.ucc.org/about-us/short-course/ を見ても、各旧4教派の伝統を「Legacy」すなわち「遺産」として今も大切に、それぞれを受け継ごうとしている。この合同も一足飛びの合同ではなく段階を経たものであった。まず会衆派とクリスチャンチャーチ(1794年に独立戦争を戦った兵士であったJames O'Kelleyが中心となってメソジスト教会から離脱した教会を中心として組織された。メソジストにおけるビショップ=監督という独裁的なヒエラルキーに反発)が合同し、ついでドイツ改革派教会とドイツ福音教会が合同し、その2つが合同してUCCとなった。いわば前者は教会制度の近い合同あり、後者はドイツから来たカルヴァン派とルター派という「民族教会」としての合同であった。それがそれぞれの伝統を生かしつつ、「that they may all be one」とイエスが祈られた言葉を教団のモットーとして重んじて合同した。この言葉はUCCのロゴになっている。したがって教会制度や職制について一致して合同したというわけではない。
ところでこの教会における聖餐論、特にUCCにおけるいわゆる未受洗者や子どもへの配餐については、不明であるということである。そこで今回、特にこのために質問してもらったところ、答えはUCCにおいて聖餐の一致という意味でオープンにするか等の議論を及び決定は一度もしたことはない、とのことであった。
1957年設立総会議事録の資料30「Basis of Union of the Congregational Christian Churches and the Evangelical and Reformed Church」のなかには、UCCの組織は各個教会、教会員一人一人の集合体という意味において存在し、「(会衆によって)交渉され、行われている聖餐共同体である教会における礼拝と教育の自由はUCCによって保護される。他の事柄についての自由は、これに要約されるものではない」とある。これを聖餐式についていえば各個教会の会衆の決定は、礼拝、教育において何にも拘束されずにUCCが後ろ盾となる以前に、聖餐は会衆によって議論され、決定されるという事が当たり前のこととして、主語の修飾節に記されている。

figure

 

ランディーによると、各派が集まっての「合同準備会」で議論されたことはこの教会制度に対する共通理解こそがUCCの合同の理由であり、合同して「宣教する」ことを求めたのであった。その共通理解を会衆派、クリスチャン教会が持てることは教派神学の理解から比較的には当然であるが、そこにドイツ改革派、ドイツ福音教会も共有したことの意味、意義ことが、現在の教団を考える際に踏まえられなければならないであろう。
このUCCで、今日どれくらいの教会がオープンで聖餐式を執行しているかと言いえば98%、ほぼすべての教会でということになる。2パーセントのほとんどはドイツ福音教会の伝統であるということである。しかし異なった聖餐論を尊重しあう、しあわないという次元の話ではなく、その違い自体が議論になっていない、という。
以下、いくつかの点を補足しておくと、UCCは教会論が違う教派が合同するという事典で、職制や教会論の一致による合同を始めから目指しておらず、現在も「UNITING」であることを認識しているといえる。CoffinというUCC初期の神学者がUCCの宣教論について記した「United and Uniting」(UCC Press)は今も神学校の授業で用いられているという。
またアメリカでは多くの「洗礼は受けているが、普段教会には行かず、信仰もあるようなないような無自覚なクリスチャン」と英語で表現されている人たちがいるので、日本の教会ほど厳密な現住陪餐会員のシステムを殆どの教会が放棄している。教会の教会員原簿は、その意味で厳密ではない。このあたりが、キリスト教を背景として、その上で教派教会(Denominational Church)が成立している社会構造の相違であろう。
教会の一致は、職制などの制度よりも現実の課題にどう関わるかによってなされる傾向が非常に強いということである。例えば2006年の第25回UCC総会にて同性愛結婚をUCCはメインラインチャーチとして初めて認めた。その結果として現在の式文には同性婚式の式文が入ることになった。その結果、プエルトリコ・カンファレンス(教区のような存在)がカンファレンスごと離脱し、また多くの各個教会も独自に離脱した。しかし逆に元々南部バプテスト系で教会員が一万人ほどのメガチャーチ「ニューホープ・カセドラル」などいくつかの教会がUCCに加入したため、教団全体の教会員数は微減であったという。
このように一人の信仰の集まりが一会衆、各個教会となり、各個教会の意見が教区、そしてその集まりが教団となる。教団は教会や一会員に神学的な提言はしても「強制」するものではない。その教会論は、会衆派やクリスチャンチャーチの遺産として教団の設立時より大切にされている。
したがって本質的な問題は、UCCは、何の目的で合同教会結を形成したかという問であり、それは結合・連合した教会が、単純に「そうすべきである」、「そうするのが当然である」、「そうしなければならない」ということの合法性よりも、福音によって必要な生活様式、すなわち、教会の使命(宣教)に主眼を置いてきたということであるUCCは、教会の外側における人間社会について大きな関心を共有している、エキュメニカルな懸念の特殊な産物である
アメリカにおける人種差別問題や、現代においてはイスラムを含めた多様な民族構成社会であり、世俗化社会の先端を主導しつつ、原理的キリスト教、保守的キリスト教もまた強い勢力を持っている複雑な社会であるアメリカのなかで、イエス・キリストの告知した福音の出来事の豊かさを証するためにこそ合同教会が形成された。さらにUCCは20世紀後半の問題に教会として宣教の課題として関わる方法に強い影響を及ぼした。これらの問題とは、人種、戦争、貧困、性別、性的性向に関する問題、女性の役割、技術、環境、アメリカにおける社会制度的な生活の堕落などであった。
世界の変化の速度は早く、その経済およびコミュニティ、倫理に関する従来の固定的古典的教義では十分に説得力を持ち得なくなっている。アメリカにおける異なる人種コミュニティの関係は、北/南、黒/白という問題という国の意識よりも、あらゆる人に影響を及ぼす人種、階級、文化という一群の問題へと動いていった。この文化的なコンテキストにおいて、キリスト教信仰が自身の文化と一致すると仮定することに慣れていた人々は、1世代または2世代のうちに、自らの文化にはもはやキリスト教信条と価値観が高い関係においてないことを急に知った。さらにUCCを形成している教会において、人々は、この国の教会の有力なグループの一部であることに慣れてきた。しかし、今世紀末までに自分たちがアメリカのキリスト教文化においてマイノリティであり、その縁・周辺にいることに気づいたのである。
この変化に若干の形を与えるために、50年代の前半から1980年代の終わりまでつうじてUCC内にこれらの懸念が進歩を見ることができ、教会生活と考えのUCCスタイルの進化が生じた。1950年代におけるUCC教会の生命の基盤は、20世紀前半の自由主義神学とエキュメニカルな熱意によって覆われた19世紀後半の福音主義的プロテスタンティズムであった。
UCCは、この逆説的な時代に生まれた。その同じ年、1957年、福音主義的な宗教への熱意の波にのって、ニューヨークで行われたビリー・グラハムの運動(crusade)は、キリストのために200万ドルとほぼ6万の決心者をとらえた。それと同時に、アーカンソー州のセントラル・ユニオン高校リトルロックに対する法廷の統合命令は、市民権への関心や懸念をかきたてた。
宗教繁栄の外見は、UCCの創立世代に響いた。1965年から1975年まで10年間になってはじめて、完全な状況が明らかになった。そして、世紀末になってはじめて、すべての状況が明らかになった。
1973年に開かれた第9回全体教会会議(General Synod IX)は、教会がエキュメニカルな使命を回復する分岐点であった。この教会会議は、「UCCのエキュメニカルなスタンス」(The Ecumenical Stance of the United Church of Christ)と題した発行し、エキュメニズム諮問委員会(the Council of Ecumenism)を設け、その働きを教会生命とリーダーシップ事務所(Office of Church Life and Leadership)に移すことによって神学委員会をやめた。
これらの動きは、キリスト教の一致に自らをささげる教会のエキュメニカルな生命にとって重要であった。したがって、社会のより大きな問題は、これらのイベントに対して首尾一貫した主流プロテスタントの反応を明確に述べるための聖書的かつ神学的な研究を十分に備えていない、ローカル教会の教会員にのしかかった。ビジネススタイルは、教会の構造が丈夫であるという実業界をつうじて信徒を安心させた。しかし、精神的なリーダーとアドバイザーとしての牧師の役割は、少しずつ失われた。UCCの神秘論者には実質的には、精神的な助言または激しい宗教的な経験の理解のための行き場所がなかった。
さらに、神学の学術的な研究、そして神学的な考え方の教会で実践のあいだの隔たりは、大きくなった。信徒の懸念、そして国家教会、神学校、聖職者の専門的な課題のあいだにあるギャップは、教派におけるエキュメニカルな理想と使命を解決するよう脅かした。
UCCは、それは、特別な神学的理解を主張しないが、三位一体を信仰告白する幅広い家族に位置する。そしてまた、1世紀半のあいだ、逐語的もしくは不思議な方法で聖書の言葉を受けとめる伝統を持っていないが、聖書をインスピレーションとガイドとして受けとめている。UCCにおいては、いかなる教会論である聖書の記録に誠実でなければならない。聖書の伝統に対する認識可能な忠実さ、現代の質問のための新しい洞察の洞察力のあいだにある緊張は、わたしたちの教派の生命にとって特有である。
教会論に関するUCCでの対話において、つぎの3つの条件が幾度となく浮上する。一つ目は、互いに愛し合う共同体(Beloved Community)である。二つ目は、契約(covenant)である。三つ目は、神の宣教(Missio Dei)である
もう一つ、アメリカには現在もなお会衆派教会が、教派教会として存在している。その一つの会衆派の教会は、Conservative Congregational Christian Conferenceなどがあるが、逆にこの教会は聖餐論についての議論は特にないし、その論理的帰結として原則的にはクローズだという。

(7)アジアに成立した教会
その他の視点としては、日本と同様に、ミッション・フィールドに成立してきた例えば韓国、台湾、その他、アジアの国々の教会を参考にすることに意味があるが、昨年の神学協議会の時に、オーストラリア合同教会(Uniting Church in Australia)やタイ合同教会(Church of Christ in Thailand)について触れたので省略する。
この項目をまとめるならば、なぜ「合同教会」が成立したか、その成立の理念、神学的課題をこそ問わなければならないということであり、特徴的であるのは「課題共闘型」、別言すれば、われわれの教会が立てられている地域(そこで生活している信徒が教会を形成する)から、あるいは教会の個別の事情(付帯施設がある、立地的に住宅地、学生が多い地域、など)を十分に踏まえ、この市域、この時代においてイエス・キリストの福音を宣教すること、伝道することがどのような使命を負っているか、その課題を共に分かちあうことを使命として教会の組織を形成していった、という点であろう。

(8)「日本基督教団」の「合同」の意義を問うこと-「宣教」の現場における苦悩-
日本基督教団の合同そのものがなにを求めた合同であったか、を問うならば、一言で言えば、戦時下の国家の宗教統制によって戦争遂行の為のものであった。したがって世界のさまざまな合同教会の成立過程と日本基督教団の成立過程とを比較してみればそれは明らかである。そして教団の成立は、今日的な理解と解釈では教団の「教憲」の「前文」の「くすしき摂理」によるものではなく、戦時下の国家政策の要請を受けて成立したものであることを認識しつつ、しかし今日、わたしたちはこの負の遺産をしっかりと見据えて、真のエキュメニカルな教会をこの日本社会に形成していくという使命があると考える。したがって現在のわたしたちの立場としては、いわば教団内セクトとしての会衆派の伝統擁護や自己主張というよりは、「宣教」の現場における課題として、それは各々の地域に立てられている各個教会の宣教の使命を担うゆえに、現場の豊さ、多様性とその展開として議論されるべきである。
会衆派教会(組合教会)は、各個教会の自由、独立を重んじてきた。しかしその意味するところは、牧師の自由を指すということでは断固としてはない。招聘する教会の自由、独立なのであり、それを具体的に言えば各個教会の責任は役員会にこそ求められ、われわれ教職はそのような役員会を形成することに努めなければならないであろう。また欧米のようなキリスト教を社会背景に持っていない日本社会にあって、教派に関して深い認識を持つことに対して弱い日本の教会にあっては、われわれの使命は、牧師の自由でなく、自立した信徒、そして牧師を招聘することに対して自覚的である教会の代表である役員会の形成について、もしわれわれ牧師が教会に対して「教育する」ということがあるなら、このこととして努力していかなければならないであろう。組合教会の独自性は、牧師依存型の教会ではないからである。
その意味で、組合教会のサクラメント、また宣教は、すなわちおのおの異なった地域社会に立てられて、異なった課題をもつ教会の独自性、自由さを念頭に置くことから組み立てられていくであろう。すでに述べた「課題共闘型」宣教を共に担うための教会、そして教団であるべきである。
「しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」マタイによる福音書11章19節
「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」ヨハネによる福音書17章11節

 

 

参考資料

「会衆派の神学」(『キリスト教神学事典』教文館、1995年)
歴史的会衆(組合)派諸教会は、今日ほとんどのものが合同教会を組織しているが、様々の教派のなかでも初めから神学活動に熱心な教派であった。その神学の中心問題が聖書の権威の優位性と聖霊の自由の問題であったために、古典的な信条を受け入れることを教会に加盟するための条件とすることには消極的であったが、彼らも、教会としての信仰宣言を数多く生み出してきた。初期のものには、1649年のマサチユーセッツ・ケンブリッジ綱領や1658年のサヴォイ宣言などがある。これらはすべてカルヴアン主義に立ち、1648年の長老主義のウエストミンスター信仰告白をほとんどそのまま写したものであるが、教会の秩序に関する条項は削除改訂されている。
会衆(組合)主義と長老主義との間にはこのような相違はあったものの、それは精神的不一致を意味するものではなかった。会衆主義の「非中央集権的カルヴアン主義」は、各個教会の自律が尊重されるだけでなく、教会をそれぞれの地に呼び出だして成立せしめ、賜物を与えて成長させる聖霊の重要さを認めることを意味している。このことが会衆派教会をして長老主義教会だけでなく、プロテスタント諸派のなかでも特に徹底的改革を掲げるグループとの関係を結ばせることになった。同時に、17世紀に書かれた二の代表的会衆派教会政治提要、つまりJ.コットンの『天国の鍵とその権能』(1644)、そしてJ.オーエンの『福音教会の真の性質とその統治』(没後の1689年に出版)の2著が明らかにするように、会衆主義とは精神的個人主義と組織への任意参加主義の表現ではなく、古典的な教会秩序の再解釈を試みたものなのである。それは教会が組織形成的性格をもつものであることをその最も個別的なかたちにおいて、つまり地域に立つ各個教会同士の交わりが重要であることを認めながらも、それぞれの各個教会が恩寵の手段のすべてを備えて独立することを認める。教会が「集められた教会」であるべきであると言っても、それはキリスト者の集まりがどんなものであれ教会と呼ばれるということではなく、神の民を集めるのは聖霊であり、人々が教会秩序のなかで共に歩む契約を結ぶ決心をさせるのも聖霊であることが強調される。教会が集められたものとしての性格を持つことが強調されるのは、聖公会の掲げるエラストウス主義に対抗して、「救い主の王権」を主張するためであった。ニューイングランドにおいては「神的な共和国」がどうあるべきかについて、総括的にして委細を極めた概念が構想された。
会衆派教会のカルヴアン主義はいつも「開かれた」かたちのものであったので、神学者たちは新しい思想の動きに常に敏感であった。18世紀には合理主義の影響によって、そしてその後にもアメリカの「大覚醒」やイギリスのメソジスト主義の影響を受けて、カルヴアン主義に対する修正がなされた。とは言っても、アメリカの傑出した神学者、J.エドワーズの著作に見られる関心の広さ、そしてI.ウォッツの賛美歌などは、彼らが福音の広さ深さへの感覚をいささかでも失ったのではなかったことを明らかにしている。
(略)
世界の各地で会衆派教会は他の教会との合同を推進する姿勢を保っていたこと、多くの牧師たちが更にひろく世界教会運動に参加して大きな貢献をしたことなどは、会衆派教会が不完全なものであるとしても真正の普遍教会(カトリック)の理念を持つ教会であるとの主張を裏付けていると言えよう。会衆派教会が持つ特殊性が、教会合同によって出来上がったより中央集権的な組織のなかでどのように保存されるかという問題に答えることは、これからの課題である。(Daniel Jenkins)(下線 : 原)

 

「エウカリスティアの神学 Eucharistic Theology」(『キリスト教神学事典』教文館、1995年)
エウカリスティア(聖餐、聖体拝領、聖体礼儀)の神学的解釈はキリスト教史のそれぞれの時代により、典礼形式の相違や、様々の時代を風靡した哲学的思考様式の相違を反映して、多様に変化してきた。にもかかわらず、すべての時代のエウカリスティア礼拝にはある共通の基本的要素が見出されるのであり、エウカリスティア礼拝とエウカリスティアの神学との歴史的発展には基本的な連続性がある。エウカリスティアという語そのものは、感謝を意味するギリシア語のeucharistiaに由来するが、これは新約聖書の時代、祝福を意味するヘブライ語のberakahの訳語として用いられた。(略)
現代のほとんどの教会のエウカリスティアの神学を見ると、宗教改革の時代、またその後の論争を通して出来上がった公式の立場を継承している場合が多い。しかし20世紀半ばのエキュメニカルな趨勢によって、対立する解釈に対する寛容が尊重されるようになっている。(略)
エウカリステイアの神学の基本的問題は、手短に言えば、「エウカリステイア礼拝において何が起こっているのか」ということである。現代の神学者は、カトリックもプロテスタントも、この問いに答えるために、それぞれが所属する教会の教理定式だけでなく、改訂された典礼式文、聖書神学および歴史神学の成果、それぞれの神学者が個人としてまた集団としてのエウカリステイア礼拝における体験に対する洞察などをも動員し、また現代の諸哲学の理論などをも利用している。例えばローマ・カトリック教会だけに限って見ても、エウカリステイアが様々の文化的コンテキストのなかで祝われている(ヨーロッパ、アメリカ、ラテン・アメリカ、アフリカ、その他)ことから、他の地域においては必ずしも妥当でないだけでなく、カトリック教会の公式の教えにもそぐわないようなエウカリステイアの神学が編み出されるという事態が生じつつある。また、カトリック神学者たちが現代の哲学体系(実存主義、現象学、プロセス思想、そしてマルクス主義さえも)を利用していることから、伝統的なスコラ神学に代わる知的伝統が発生することにもなっている。
従って、現代のキリスト教界において、カトリック、プロテスタント、その他の諸教会が、簡潔な固定した幾つかの命題からなる神学、それぞれの教会の名を冠したエウカリステイアの神学を持っていると考えるのは間違いである。事実、全体的傾向としては、既にアングリカン・コミユニオンにおいて見られる動向、つまり、エウカリステイア礼拝の意味と現実とを理解しようとする真撃な知的試みが多岐多様に枝分かれする場合にも、それらすべてを容認するという方向に向かっていると思われる。それでも、そのような試みにとって、幾つかの基本的な事柄が要件となる。特に、エウカリステイア礼拝と最後の晩餐との関係、キリストの死や復活との関係、受肉や贖いの秘義との関係、各個教会との関係、普遍教会との関係などを抜きにすることはできない。(略)
最後に、エウカリステイアの神学的重要性は外に向かって広がり、時空内にある普遍教会に関わる問題となる。歴史的にみれば、エウカリステイア礼拝はキリスト教の歴史の全体を通して、何らかのかたちで存続してきたものであり、現在もほとんどすべての教会において見られるものである。諸教会のあいだでは信仰告白の相違から、相互陪餐ができない状態にある(例えばローマ・カトリック教会と東方諸教会)が、今日の多くのキリスト者たちはエウカリステイア礼拝がエキュメニカルな、そして教派的相違を超越する一致のしるしであることを認識しており、ヨハネが伝える最後の晩餐におけるイエスの祈り、「すべての人が一つに」(ヨハネ17:21)という祈りを我々に思い出させるものであることを確認している。(下線 : 原)