20070924DOAM講演

「日本基督教団の戦争責任告白」

 

  1. 日本基督教団の「第2次世界大戦下における日本基督教団の戦争責任についての告白」と日本社会における「戦争責任」論をめぐって

第2次世界大戦、また15年の間続いたアジア・太平洋戦争の時代の「戦争責任」に関する日本社会一般の認識は、率直に言って現在に至るまで明確にされてきたとは言いがたい。
最初にその理由をいくつか列挙する。
まず250年間に及ぶ長い鎖国の時代を経て日本が国際社会に参加していった1860年代以後、日本は近代化の歩みを開始したが、日本の近代化は「脱亜入欧」(だつあにゅうおう)(アジアから脱出して欧米のレベルをめざす、植民地にならない)「富国強兵」(ふこくきょうへい)(強い国は強い軍隊をもつ)「殖産興業」(しょくさんこうぎょう)(近代産業を起こす)「国民皆兵」(こくみんかいへい)(徴兵制のこと)を目指したものであり、思想的には「和魂洋才」(わこんようさい)(日本の精神を基礎として西洋の技術を導入する)であった。「和魂」の中には、日本主義すなわち神道に基づいた日本精神が根底にあり、明治以後、神道は「国教」として存在したが、ここでは「神社非宗教論」が唱えられ、神社は国家のもとに管理運営されてきた。これは国家が定めたものであり、そこには政治的、文化的、宗教的に重層化した特殊日本の近代化過程があった。明治以後、神道を背景に国家神道が主張され、ここに天皇制に基づく国家体制が成立した。神道自体は一言で言えば、アニミズムに基づいたものであり、これを基盤とした近代化が進められたのである。
また明治以来、日本人クリスチャンは西欧文明の根底にあるものとしてキリスト教を理解してきた。それは日本の近代化過程に不可欠なものであると理解したからである。したがって日本におけるキリスト教は、プロテスタント教会、カトリック教会ともに欧米からの外来宗教であったために、日本人クリスチャンは常に「日本人であること」と「キリスト者」であることに対して緊張関係を内在させてきたといえる。
また1945年8月15日の敗戦も、天皇の決断によってなされた。したがって現在もなお、共和制ではなく天皇制が存続している。
このような日本のプロテスタント・キリスト教会の歴史のなかで、1967年3月に日本基督教団議長の名前で発表された「第2次世界大戦下における日本基督教団の戦争責任についての告白」は、他のプロテスタント教会、カトリック教会、その他有力な日本の仏教教団に対して、「世の光」として先駆者としての役割を果たした。
そして今年、2007年は、この「告白」から40年目を迎えた。しかし現在の日本基督教団は、この「告白」を今日の課題として担っていこうということではなく、教会としての混乱、福音理解、宣教理解の混乱という意味で「荒れ野の40年」(現・教団議長)と公言して、この40年を否定的に捉える状況が生れている。
もちろんキリスト教宣教地に成立した日本のキリスト教は、他のアジア諸国のキリスト教とは異なった歴史的展開がある。いずれの場合もキリスト教は必然的に「少数派」たらざるを得ないが、ことに日本の場合はすでに述べた特殊日本の事情があると言わざるを得ない。例えばドイツの場合と比較して戦後40年の1995年にドイツのヴァイツゼッカー首相が「荒れ野の40年」と述べて、戦争責任に言及した年に日本では中曾根首相が靖国神社に公式参拝をし、また最近でも小泉、安倍各首相が靖国神社に参拝した。これについて中国や韓国から激しい批判の声があがった。日本のマスコミの世論調査によれば、約半数が首相の靖国神社への参拝について日本人であれば行くのは当然だ、支持する、と答えており、また約半数が行くべきではないと答えている。その参拝反対の理由の大半は、中国や韓国とは経済的に重要な関係であるから反発を起こすようなことはするべきではないというものであった。そこには、靖国神社とは何かを熟知していない現在の状況と、また宗教(神道)と国家との関係を基本的に問うことをしてこなかった日本社会の精神性が指摘できる。これは最初に述べたように日本人の間で「戦争責任」を自覚的に問うたことがないからである。もちろん多くの日本人は平和を愛好しているものの、この平和への希求は、歴史的に「加害者」であることと「被害者」であることの両面を正面から問うて来なかった。その結果として、靖国神社に込められた歴史的意義を深く認識することなく、単純な平和志向の象徴として認識してきたところに現代日本の課題が存在する。

2、日本の現在のキリスト教の統計(実勢力)
日本基督教団の「戦争責任告白」を論ずる前に、現在の日本のキリスト教の状況をについてスケッチしておく。
最新のデータによれば、日本の総人口1億2500万人の内、クリスチャン(現住陪餐会員)は、112万8千人であり、これは人口比0.885パーセントである。その内訳は、カトリック教会が約47万8千人、プロテスタント教会は約61万人である。そのうち日本基督教団の信徒数は20万人で最大の「合同教会」である。この112万人という数字は、約130年あまりの日本のキリスト教伝道の歴史の中で、過去最高の数字である。
カトリック教会と日本基督教団も加盟している日本基督教協議会(NCC)の系統の教会における信徒数はほぼ横ばいであるが、微増ではあるものの信徒数の増加は福音系の教会において認められる。

  1. 日本基督教団の成立の過程

  日本基督教団は「合同教会」として1941年に成立した。その経緯をスケッチする。これはある意味で、現在の日本基督教団に対する自己理解にも関わる。
日本政府は、1873年に「切支丹高札」(キリシタンこうさつ)(封建時代、鎖国時代に続けられてきたキリスト教を禁ずる政策)を撤去した。これはキリスト教の伝道活動の黙認であった。その後各地に欧米の宣教師によって教会、学校が立てられた。1899年に発布された「大日本帝国憲法」の第28条では「日本臣民は安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限りにおいて」(日本の国民は、天皇の臣下「家来」であり、この国家社会の安定を妨げないかぎりにおいて、また臣下「家来」として生活するならば信教の自由を与える)という、恣意的に解釈可能な状況のもとに「信教の自由」は認められた。その後政府は、1899年、1926年、1929年にも仏教や他の宗教を含む宗教を国家管理のもとにおくことを目指した「宗教法案」を提出したが、いずれも一部の仏教界、キリスト教界の反対によって廃案となった。ところが1931年以後の日本のファシズム国家体制が急速に整備されるなかで、1939年に「宗教団体法」が成立した。日本基督教団はこれによって1941年6月に成立した。
宗教団体法は、治安維持法や不敬罪とならぶ当時の弾圧法、統制法であった。これによってカトリック教会とならんで唯一の合法的プロテスタント教会である日本基督教団が成立した。日本のプロテスタント教会は歴史的には明治時代以後、教会制度はアメリカの宣教師から、また神学思想はドイツから多くの影響を受けて成立してきた。各教派教会は、日本基督教連盟を中心に「合同教会」の成立を志向してきたものの、合同する教会がどのような教会制度、信仰職制を持つかを巡って、いわば総論賛成各論反対の状況であったため、日本基督教連盟による合同運動は「合同基礎案」を作成したものの、それ以後の展望を持つことができなかった。連盟には加盟教会に対して強制力がなく、また一部の教派(日本基督教会、長老・改革派)が教会制度で合意できなかったからである。成立した日本基督教団に加盟した教会は、当時のほぼすべてのプロテスタントの35教派の教会であった。これには長老派、メゾジスト派、会衆派、バプテスト派、ルーテル派、ホーリネス派、多くの少数派の教会、そして救世軍が含まれていた。
このうちホーリネス教会は1942年、約120名の教職が治安維持法違反容疑(再臨信仰)で逮捕、起訴された教職81名。獄死者7名。260余りの教会・伝道所は解散命令を受けた。
また宗教団体法が国家の統制法であったため、教会(教団)は、国家総動員法に基づいた宗教報国会の組織でもあった。その意味は国家の総力戦に宗教もその一部を構成したということである。
以下、簡単に戦時下の教団の諸活動を列記する。

「教団統理の伊勢神社参拝」(伊勢神宮は国家神道の最高の神社、統理はここに教団合同の報告のために参拝した)
「戦時布教指針」(大東亜戦争の目的完遂、宗教報国、日本基督教の確立を指針として表明)
「神学校の統合」(各神学校を統合させた)
「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書簡」(欧米キリスト教を批判し、日本文化の独自性、優位性を主張し、第東亜の教会も日本の教会を見習え、との論旨)
「軍用機献納」(陸軍に2機、海軍に2機、日本基督教団の名前の戦闘機が献納された)
「南方派遣教師」(軍政を敷いたインドネシアの宗教宣撫工作のため20名の牧師が軍属として派遣された。内4名は赴任途中、殉職)
「教師の勤労動員」(教団教師203名が生産に従事、あるいは練成指導にあたった)

1945年8月15日の敗戦直後の教団の会議で教団統理は、「(大意)戦争終結は天皇の意志から出たものであるので、この意志を尊重し『国体護持』(天皇制の存続)の信念を持ち、信仰に励み、全ての力を国力再建に傾けて、天皇の意志に応えなければならない」旨の文書を明らかにした。

  1. 昭和初期のバルト神学の紹介とその受容

  すでに日本のキリスト教は、教会組織としてはアメリカから、神学はドイツから影響を受けたと指摘した。では、そのドイツ神学は、この時代、どのように日本の神学者、教会の牧師に受け止められていたのかを述べる。
日本では、1932年、バルトの『教会教義学』が出版された当初から注目されはじめ、34年のバルトとブルンナーの間における「自然神学論争」以後、バルトに傾倒する神学者・牧師は多数にのぼった。加えてこの時代の神学者たちは、1930年代のドイツの「ドイツ的キリスト者」の運動や、バルメン宣言、宗教社会主義運動などの動向については情報としてはよく知っていた。しかし日本の戦時下においてバルト神学は、沈黙の神学、すなわち一方的な絶対的な啓示による救済の神学として、いわば後退のための、沈黙のための神学となった。
他方、1925年以来、賀川豊彦の実践的隣人愛を強調した運動が一部の牧師、クリスチャン学生に強い影響を与えた、これを「社会的キリスト教」と呼ぶ。特に1930年代に高まりを見せたものの、学生の運動理論の先鋭化によって、1930年代以後、逼塞状況に置かれ、分解してしまった。

  1. 戦後の日本基督教団からの離脱教会

1945年8月の敗戦に伴い、日本は独立主権を失い米国を中心とした連合軍による統治が始まり、直ちに連合軍総司令部によって様々な指令が発せられた。そのなかに「宗教団体法」の廃止も含まれており(10月4日、廃止)、また12月には国家と神道の分離も指令した。
連合軍総司令部のもと、1946年に現在の日本国憲法が公布された。その主要な点は、天皇主権から国民主権、天皇は象徴、戦争放棄、基本的人権の尊重、政教分離を定めたものであった。
「宗教団体法」の廃止に伴い、海外の教派教会と直接的関係を再開して、教派教会の再建を求めて、長老派・改革派の一部、バプテスト教会、ルーテル教会、ホーリネス教会の一部、また多くの少数派の教会や救世軍が教団から離脱した。
その離脱が一応終了した1954年に日本基督教団は信仰告白を制定し、同時に教会としての社会的責任を果たすことができる教会を目指して宣教基礎理論を発表し、体質改善を進めようとした。

  1. 沖縄のキリスト教会

  簡単に沖縄のことについて触れる。日本の西に位置する九州と台湾のほぼ中間に位置する沖縄では1945年6月に組織的戦闘が終了し、以来1972年の復帰まで米軍の施政権下に置かれた。沖縄戦末期には日本の主要な本州、北海道、九州、四国出身の牧師、そして沖縄出身の牧師は、台湾や九州に疎開し教会は組織と共に破壊された。戦後、牧師を失った沖縄で生き残った信徒が、自分たちで米軍のチャプレンの支援を受けて教会を再建した。

  1. 日本基督教団の「戦争責任告白白」の成立の過程

  第2次世界大戦の終結は、東西冷戦の開始であったが、極東においては冷戦ではなく1950年に「朝鮮戦争」が勃発し、第3次世界戦争に対する危機感が高まった。この危機感を背景に太平洋戦争時代の教会の指導者層に対する批判が起こり、世代交代とともに「キリスト者平和の会」の運動が、労働組合、教職員組合、平和を志向する政党と協力しながら各地で始められた。「キリスト者平和の会」は、その発足にあたって発表した「平和に関する訴え」の中で「第2次大戦に際して、われわれキリスト者が犯した過ちは、平和の福音を単に眺めるのみで、そのために身をもってたたかわなかったところにあり」と述べて「これを深く悔いるものである」とした。これは教会の戦争責任についての最も早い自己批判の声の一つであった。
これには、当時の若手世代に属し後の教団議長となる鈴木正久の西ドイツへの留学中の経験なども含まれていた。彼はドイツの分断状況のなかで外国人であったゆえに東西の壁とは無関係に往復することができ、その過程で当時の東西両教会のメッセンジャーの役割を果たしたのである。
加えて第2次大戦下のドイツで、ナチズムに抵抗した告白教会の闘いが詳細に紹介され、「バルメン宣言」に関する神学的研鑽が深められ進められて行った。
1965年、日韓両国民の激しい反対運動が展開されたにもかかわらず、アメリカの主導で日韓基本条約が締結され、日韓の国交回復がなされた。この年、韓国の強力な教会のひとつである韓国基督教長老会(Presbyterian Church in the Republic Korea)の総会に教団議長大村勇が招かれて挨拶をうけることになり、ソウルを訪問した。しかし彼は議場の外で3時間待たされた。それは36年間に及ぶ日本の植民地統治に対する激しい批判があったからである。
日本植民地統治時代に、「創氏改名」(朝鮮民族の個々の固有の姓を日本の姓に変えさせること)や「神社参拝」が強要された。例えば神社参拝を拒否する朝鮮半島の牧師や信徒が多いことを受けて、1938年に当時の日本基督教連盟の議長であった富田満は、ソウルに赴いて「日本政府はキリスト教の存在を認めている。諸君の殉教精神は立派だが、いつ日本政府はキリスト教を捨てて神道に改宗せよとせまったか」と述べて、日本政府の代弁を行なった事例があるからである。
しかし総会では激しい議論の後、キリスト者は赦すこと、和解をすることが大切であるとの意見が多数派を占めた。議場に受け入れられた大村はこの議場で心からの謝罪をした。その後、教団は韓国3教会、すなわち韓国基督教長老会、大韓イエス長老会(Presbyterian Church in Korea)、基督教大韓監理会(Korean Methodist Church)と宣教協約を結んで今日に至る。
この時代は、対外的にはアメリカのベトナム戦争への介入に対する反対運動があり国内的には60年代から、結局は激しい反対運動によって廃案になったものの「靖国神社国家護持法案」(やすくにじんじゃこっかごじほうあん)(靖国神社を国家が管理運営しようとする法案)が上程されることなどへの危機感があった。
この状況のなかで「明日の教団」を主題にして68年に開催された日本基督教団の夏期教師講習会の席上で、鈴木正久を含む若手教職たちから、戦時下の教団の戦争責任を明らかにすべきであるとの意見や、沖縄キリスト教団との合同を推進すべきであるとの提案がなされ、以後、これを建議案とするための準備が進められ、同年11月の教団総会で建議者よりの趣旨説明、質疑応答の後、常議員会に付託する提案が賛成多数で可決され、続いて常議員会で、賛成19、反対2で可決された。これは戦時下の「日本基督教団より大東亜共栄圏に在る基督教徒に送る書翰」を打ち消す意味がこめられていた。
しかしこれとは逆に、これを否定的に、また強い反発をもって批判する人々も多数いた。その理由は、平和な時代から戦時下の責任を批判することは許されない、社会的な問題に対して教会は慎重な姿勢であるべきだ、あるいは戦時下の教団の成立は当時の諸教会の祈りと願いに基づくものであった、というものである。その後も教団内部においてその是非をめぐって賛否が分かれ、その投げかけた問題はその後の歩みに強く影響を与えた。
この「告白」の具体的な取り組みとしては広島の原爆孤老ホームの建設や、沖縄キリスト教団との合同(後述)などがあげられる。
この「告白」は、他のキリスト教会各派や仏教などの他の宗教を含めて、思想や報道、学術などのあらゆる分野において戦後の日本社会のなかで初めて公にされたものであり、その後の各教派、宗教教団にとっては先駆的な役割も担った。
しかし教団としては、一致してこの「告白」が生み出されたものではなかったゆえに、その後、今日に至るまでの教団の「40年」に対する認識、評価の違いとなって表れてくることになった。極めて不幸なことであるが、教会としての使命である福音宣教の内容と方向について、これを教団内においては「教会派」と「社会派」という単純な二分法で判断する認識が広まったといえるからである。

7、  「万国博覧会」への「キリスト教館」の出展を巡って-宣教論の問題-
1970年は日米安保条約の改定の年であり、また大阪で万国博覧会」が開催されこれにプロテスタント(NCC)とカトリックの協力でキリスト教館を建設することになった。これに対して資本主義の祭典である万国博覧会に参加することの意義を巡って、教団では大きな混乱が起こった。若手の教職、神学生、クリスチャン学生は激しくこれに反対し、この結果として東京教区総会では機動隊を導入して会議を開催し、反対した青年を告訴した。この結果、東京教区は70年から90年まで教区総会を開催することができず、結果として教団総会には東京教区選出の議員が選ばれなかった。
また同様に東京神学大学における学生によるキャンパスの封鎖に対して、大学は機動隊を導入して解除し学生を告訴した。結果として東京神学大学は、学生の半数以上を失った。
日本基督教団の認可神学校のひとつである関西学院大学神学部では、教団の教師検定制度への批判が起こり、その基準を巡って長い間、教団の教師検定制度の混乱のひとつとなった。
この時代のキリスト教界に神学的な影響を与えたのは、ブルトマンの非神話化論をめぐる史的イエスとパウロに関する議論の現代的解釈とその実現性であった。またキリスト教信仰に影響を与えたのは唯一の神への信仰と同時に、証、すなわちキリスト者の社会倫理の多様性をどう理解し、実践的な課題に繋げようとするかであったといえよう。

8、  「戦争責任告白」から40年の現在の日本基督教団の状況
以上、日本のプロテスタント教会のひとつであり、日本における唯一の「合同教会」、そして最初に戦争責任告白を告白した日本基督教団について歴史的にスケッチした。
すでに述べたように日本基督教団では、およそ30年の間、教団総会でもっとも大きな議席をもつ東京教区(400議席中52名)が参加しないという状況のなかで教団運営がなされてきた。それは結果的には「地域共同体」(『教憲』第6条)である各教区の主体性、独自性、地域性が顕著になるということでもあった。教区によっては教区ごとの旧教派的伝統がある程度反映して、信条主義に基づいて教区教会性を主張する教区もあれば、比較的それが弱い教区もあるなど、教区ごとの多様性が認められる。と同時におのおのの教区がその地域固有の課題を宣教の課題として展開することを求めて、教区内の協力や互助制度が徐々に整備されてきた。具体的にいえば、日本基督教団の教会・伝道所の数は1700余りであり、礼拝出席の平均は38人である。基本的には一つの教会に一人の牧師という現実は、小教会においては牧師を支えることに対して非常に厳しい現実がある。これは都市の大教会と地方の小教会における財政の格差が著しく、必然的に相互協力、互助が大切になるからである。しかし他方、大都市の一定規模以上の教会では、実質的に各個教会で自立できる。このような現実的課題を背景として、どのような教会、教区を形成するかということが課題となっている。
一つの象徴的な事柄は、「沖縄」に示される。1945年から72年まで本土から切り離された沖縄が本土復帰を果たした際、すでに成立していた「沖縄キリスト教団」と「日本基督教団」との「合同」を巡る議論に集約できる。すでに紹介したように本土返還から35年を経過した今日、なお日本の国土の0.6パーセントの小さな島に米軍の基地の75パーセントが集中している。これらの土地の多くは、占領期間中に「銃剣とブルドーザー」によって強制的に収用されたものである。現代日本社会の平和と繁栄のためのしわ寄せが沖縄に凝縮している。端的にいって沖縄とそこにある教会との「合同」を模索して教会形成をしていくということの意味は、沖縄に顕在化している苦悩と課題を、教会もまた宣教の課題、使命として、ともに分かち合って行こうというものである。これを普遍化して神学的、宣教論的な議論としていえば、沖縄に、社会問題、政治問題、経済問題として「問題」があるのではなく、日本が直面している問題が沖縄に集中的に凝縮しているという認識である。この認識は同時に日本社会の少数派である在日韓国人・朝鮮人、障がい者など、その他の社会的弱者の存在が「問題」なのではなく、現代日本社会が求めてきた経済至上主義の社会のなかにおける教会の使命を明らかにしようとする方向である。これこそが「戦争責任告白」の今日的な課題と意義である。
しかしそうではなく、教会は政治問題や社会問題にコミットするのではなく伝道こそが教会の使命であり、そのためには「信仰告白」を基準とした教会形成に邁進するべきである、とい一方の主張がある。この主張は、列記すると次のようなものである。現在の教団議長は「戦争責任告白」からの過去40年の教団の歩みを「信仰告白をあいまいにした」、「聖書の聖典性に揺らぎをきたした」、「教憲・教規に逸脱した決議や行為がある」、「聖礼典が正しく執行されない現実がある」、「いわゆる『戦争責任告白』の教会的位置付けを明確にし得なかった」、「キリストの伝道命令に不忠実であった」などと主張している。この方向は、東京教区総会が再開され、その他いくつかの教区からの選出された議員たちの支持を得て、教団の運営はこの立場がより鮮明になっている。
そのような動きの結果として、2000年の第32回教団総会で「21世紀に向けて青年伝道に力を注ぐ」件が可決され、2002年の第33回総会では、沖縄教区との宣教の連帯を進めて行こうとして準備されてきたすべての関連議案が廃案となった。それ以後、現在にいたるまで沖縄教区(議員数10名)は、教団に対して「距離をおく」として教団総会議員を送っていない。この現状の中で、いくつかの教区、教区内の地区、あるいは各個教会では、沖縄教区との連帯を進めて行こうとするところもあり、そうでない教区との間に溝ができつつある。こうしていくつかの教区においては教団の方針を巡って多くの批判や議論をひき起こしている。
このように21世紀に入って以後、教団の保守化が急速に進行していく状況のなかで、一部の教区では1967年の「戦争責任告白」を踏まえて、「戦争責任告白」には言及されていなかった事柄を新たに付加した、新しい「在罪を告白する教会」を目指している教区もある。またいくつかの教区や教区内の地区、また各個教会のレベルで、沖縄教区と連帯し協力する活動を続けている。
わたしが理解しているところで言えば、日本の教会において、福音宣教という場合のその内実と方向性こそが深く吟味されなければならないと考えている。いわゆる「社会派」と「教会派」の二者択一が問題なのではなく、イエスの福音宣教そのものが何であったのか、が問われているのだと考えている。具体的に言えば、日本社会の「周縁」、「少数」のなかで共に生きる事においてこそ、すでに述べた天皇制国家における教会の使命があり、そこに現代の「戦争責任告白」の内容と方向性が示されていると信じている。マタイ福音書4章23節以下「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた。そこで、イエスの評判がシリア中に広まった。人々がイエスのところへ、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など、あらゆる病人を連れて来たので、これらの人々をいやされた」という言葉、あるいはローマの信徒への手紙12章15節以下「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」に示される教えを、異教社会である日本でどのように実践していくか、そのような教会形成が求められる。われわれがドイツ告白教会の闘いから学び、またボンヘッファーの言う「他者のための教会」を形成することが使命であると信じている。
(以上)

 

(添付資料)
「第2次世界大戦下における日本基督教団の戦争責任についての告白」
『キリスト教年鑑』(2006)、66ページ
「日本宣教の系譜」
「他教派の戦争責任告白」

 

他教派の戦争責任告白

   1988年8月24、25日、日本バプテスト連盟、「戦争責任に関する信仰宣言」発表
1997年3月20日、「日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白」
1995年6月10日、明治学院院長中山弘正「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」
1995年8月15日  超教派賛同者による「歴史におけるわれわれの教会の霊的状況に関する罪責生命」
1995年12月8日、13教派約50人の教職・信徒が兵庫県芦屋市で「戦後50年関西クリスチャン罪責告白平和祈念会」
1996年11月18~19日、日本同盟基督教団、「戦時下の『罪責』を悔い改め、赦しを願うことを求めた『横浜宣言』」を採択。
1997年7月1日、日本ホーリネス教団、「日本ホーリネス教団戦争責任に関する私たちの告白」
1997年3月20日、日本ホーリネス教団、「日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白」
1997年8月15日、日本リバイバル同盟、「戦争責任と謝罪文」
1997年12月10日、日本ホーリネス教団、「戦時下、旧きよめ教会を『切り捨て』たことについて謝罪」

巨大仏教教団の戦争責任告白
1987年12月、真宗大谷派(東本願寺)
1995年4月、浄土真宗本願寺派
2003年、曹洞宗

(期日不明)、臨済宗妙心寺派