「合同のとらえなおしと実質化」問題の取り組みの推進に関して―歴史的事実をふまえて―


 1、
 明治国家の成立以前は、沖縄は琉球王国であり独立国であった。
 日本は1867年に大政奉還、王政復古がなされ、1871(明4)年に廃藩置県がなされたが、沖縄では1872(明5)年に琉球藩が設置され、軍隊と警官を送って8年後の1879(明12)年に沖縄県が設置され(第一次琉球処分)、日本の領土に編入され、以来、沖縄の人々は日本人となった。当時の琉球王朝の最後の王、尚泰(しょうたい)は、東京に移り住むことになり、500年以上続いた王国は消滅した。以来、皇民化政策が進められた。

 2、
 沖縄の日本の教会の伝道の開始は、どのようなものであったか。一言でいえば本土の皇民化政策の後追いで、明治の20年代後半から、バプテスト、日本基督教会、メソジスト教会が伝道を開始した。本土からの牧師が教派教会によって派遣された。しかし伝道補助者として通訳がついた。以来、本土と同様な形で、教派の教会が設立されていった。

 3、
 1931年に始まる満州事変以後、日本は満州国建国宣言、国際連盟の脱退、国体明徴に関する声明を発表、国家総動員法、国民徴用令など、急速に日本のファシズム化、戦時国家体制化が進行する。この時期に、戦時体制下における統制法である治安維持法と並ぶものとして「宗教団体法」が1939年に可決、40年施行された。この状況下にプロテスタント諸派は合同して、1941(昭和16)年6月に日本基督教団が成立した。このときに沖縄の諸教会は、九州教区沖縄支教区となった。
 当時の沖縄には5教派、16教会(日本基督教会、日本メソヂスト教会、日本パブテスト教会、きよめ教会、そして救世軍)があり、クリスチャンは2000名であった。
 では沖縄の教会の人々は、教団合同をどう理解していただろうか。沖縄キリスト教短大の学長で、前読谷教会の牧師である神山繁実牧師は、読谷教会の人々に聞いたところ「教団」などはわからない、自分たちは「メソジスト教会」だと言った、という(戒能信生牧師による)。また私が2年前、那覇で真栄原房敬という当時小学校の先生だった方から聞いたところでは、自分達は教会の枠を超えて、出席する教会は違ったが、それ以外、みんな一緒に伝道集会をしたり、交わりをもっていた、だから教団になっても全く違和感がなかった、それまでも一緒だったから、という声もある。
 ある意味では、日本での教派の教会の成立ということのその根拠の弱さもあるかも知れない。読谷教会は、那覇から遠く北のほうにあり、近くに他の教会がなく、那覇には各教派の教会があった。いずれにしても教団が成立し、「キリストの体」(エフェソ1:23)の内実を形成する時間がないままに沖縄では沖縄戦を迎えたということはいえよう。44年の段階に入ると、沖縄は戦局の悪化に伴い直接戦争に巻き込まれていった。沖縄では全島の要塞化が進められる一方で、九州や台湾に住民の疎開が進められた。最初の支教区長、琉球教会の野町良夫牧師は、徴用されてインドネシアのジャカルタに送られた。次いで支教区長になった那覇教会の照屋寛範牧師は、最後の疎開船で45年3月に大分に脱出した。

 4、
 1944年10月の「十・十空襲」で、那覇を含むほとんどの市街地が壊滅し、多くの教会が会堂を失い、残った会堂も軍に接収され、以後通常の教会活動は困難になった。地域住民でもある信徒たちも疎開するか、でなければ軍隊の勤労動員に参加することが日常になっていった。結局1945(昭20)年3月末までに、支教区長を始め、本土出身の牧師、沖縄出身の牧師のほとんどが沖縄を離れた。残ったのは首里教会の牧師で首里の地区長として配給など行政の末端の責任を追っていた佐久原好伝牧師のみであり、彼は教会を守って最終的に南部に避難する途中で戦死した。その息子の佐久原好信伝道師は読谷教会で生き延びた。また沖縄戦から離れていた石垣島の八重山教会の新垣信一牧師は45年8月に死去したので、一人佐久原好信伝道師だけが沖縄戦を命ながらえた。
 このことについては、後に羊飼いが羊を見捨てて逃げ去った、とすら言われた。川平朝清先生は「1945年6月23日、牛島軍司令官の割腹自決により日本軍の組織的壊撃の終結した日までの85日余の沖縄戦は、同時に沖縄県の崩壊であった。アメリカ軍の戦死者12281人に対し、日本軍は110071人であり、住民非戦闘員の犠牲は約6万人から15万人といわれ、学徒隊は男女あわせて980人が戦死した。同時に日本基督教団九州教区沖縄支教区も消え去った」と書いた(『27度線の南から』53-54ページ)。
 1945年3月末に始まった沖縄戦は、6月末には一応終結し、生き延びた住民は米軍支配のもと収容所で生活することになり、日本統治の手から離れ(第二次琉球処分)、この中から賛美歌を共に歌うことから戦後の沖縄の教会が始まった。一番早いのは最大の収容キャンプがあった石川であり、ここから戦後沖縄の教会の歩みが始まった。
 牧師の数が決定的に不足した沖縄では、牧師が疎開先から戻ってきた場合もあるが、なによりも特徴的なことは神学教育を受けたことがなかった信徒が、按手礼を受けて牧師となって教会の再建にあたったことである。戦後の沖縄の教会は「信徒の教会」だった。
 その後米軍のチャプレンらの援助を受けて、沖縄キリスト教連盟が1948年に成立し、キャンプから返還された自分の町や村に帰り、教会活動が始まった。しかしこの状況下、本土の教会との連絡は、まったくなかった。
 一方戦後の1946年、九州教区の総会では、九州教区を構成する一つの支教区である沖縄支教区が消滅したことは触れられず、1948年6月に開催された第3回教団総会にもその記事はない。また戦後最初に刊行された1948年版の『教団年鑑』にも、沖縄の部分は欠落している。
 ついでに述べると、教団が成立した時、教団には北海教区の中に「樺太支教区」があり、台湾教区、朝鮮教区、満州布教区、華北布教区、華中布教区があり、教会と信徒、牧師がいた。これらのことも一切、記録から理由も述べられずに欠落した。
 このことの意味は、本土のわれわれにとって、そして教会もまた、沖縄は日本ではなく、海外の植民地などと同様に扱われたということであり、より本質的に教会という立場で考えれば、われわれの信仰告白のなかにあるように「聖なる公同の教会を信ず」という、その教会は、たしかに未だ「一つの教会」としての教団の教会としての実質を築き上げるというまでにはあまりにも短い時間しかなく、また沖縄戦という事情があったにもせよ、我々の教会が、政治や軍事、あるいは国家の都合で分断されたということであり、にもかかわらず、そのことの意味をわたしたちの教団(教会)はまったく自覚することができず、認識することができなかったということになるであろう。もちろん本土において、教会もまた罹災し、飢え、自分の教会の再建で大変だったろうが、「隣人」、否「同胞」を、「一つのからだなる教会」が、教会の論理ではなく、政治、軍事の都合で引き裂かれ、そのことについて全く考慮することなく、意識の中から欠落させてしまったことが問題であろう。

 5、
 やがて沖縄基督教連盟は、1950年に沖縄キリスト教会に改組されて沖縄におけるひとつの合同教会になるが、しかしその組織が中央集権的だという批判をもって各個教会主義である旧バプテスト系の教会が別れていき、残った教会は、どのような教会を形成するか明確にすることが求められ、沖縄キリスト教会における信条の制定の問題が起こった。それまで信条を持たなかった連盟だったが、独自の信条を制定して沖縄キリスト教会の教会観、信仰観を確立しようとした。しかし当時の沖縄のキリスト教会のなかの一部に影響を与えていたスウェーデンボルグ、つまり神秘主義的傾向の強いものが出されたことに対してアメリカの宣教師団が批判を加え、最終的には1956年に日本基督教団が制定していた教団の「信仰告白」の口語文を、沖縄キリスト教会が自分たちの信仰告白として制定し、翌57年に教会の名称を「沖縄キリスト教団」に変更した。
 後に沖縄教区でも、様々な困難や限界があろうとも自分たちの中から自分たちの信仰告白を生み出しえなかった点について自己批判の声もでている。
 この時代には、当然戦後の沖縄の教会を支援したアメリカの宣教師団と関係や、なによりも米軍による沖縄統治によって引き起こされる強制土地収用などの緊張関係もあった。すなわち米軍の教会、アメリカの教会に依存しながら、一方で沖縄住民としてのアメリカ統治に対する批判などが、教会においても分離できないで混在して存在した。

 6、
 一方1960年代の日本基督教団は、戦後直後の宗教団体法が破棄され、新たに宗教法人法が制定され、旧教派のうち離脱していく教会が続き、それに対応して教団の教会としての信仰告白を制定し(1956年)、体制を整え、宣教研究所を中心に真実に福音によって宣教の責任を負う教団になるべきだとの体制を整えようとしていた。すなわち60年代に宣教研究所を中心にすすめられた「宣教基礎理論」、「伝道圏伝道」、「教会の体質改善論」という方針によって、日本基督教団という合同教会としての自覚的な新しい教会形成へと歩み出そうとしていた。その意味は戦中、戦時下の教会の歩みを検証しながら、真実に福音に立つ教会、隣人の痛みや涙を分かち合うことができる教会になる、その為に教会同士、異なった歴史と伝統をもちながらも、一つの地域にある教会として歩みを進めていこう、ということであった。またことに財政的に北米諸教団に依存してきた教団の財政を改革し、自分たちの教会の宣教は自分たちの力で行うとの決意の下に1968年の機構改正の準備を進めていた。その意味するところは教団が宣教の主体であることよりも、各教区が中心となってその地域の諸教会の宣教の責任を負うという方向であった。
 そのような歩みを続けていた1965年、当時の教団議長大村勇牧師が韓国基督教長老教会の総会に出席したとき、鋭く戦時下の日本の教団の姿勢について批判を受けた。すなわち日本植民地統治時代に当時の教団統理が韓国のキリスト者に神社参拝を要求したことなどが問われ、大村議長の挨拶を受けるかどうかで激論となり、最終的に大村議長は議場で挨拶することが許されたが、当然それは日本の教会としての謝罪の言葉から始められなければならなかった。こうして歴史の中で、真に福音に生きる教会となるべく歩みを進め始めていた1966年、東京で行われた夏期講習会が開かれた。主題は「明日の教団」であった。主要なテーマは、教団の戦争責任についてしっかりと踏まえ、新しい歩みをしていこう、ということであった。その時に沖縄から参加した山里勝一牧師によって参加者たちに沖縄グチで、沖縄の歴史、教会のことを忘れているのではないか、という指摘がなされた。これは参加者に衝撃を与えた。この衝撃を受けてその年の秋に大阪女学院を会場に開催された第14回教団総会に、「沖縄キリスト教団との関係について研究開始を要望する件」と「教団として戦争責任に対する告白を公にする件」の二つの建議案が提出された。ここから急速に日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同へと事態は展開する。「戦争責任告白」は67年の3月のイースターに鈴木正久議長名で出され、2月には鈴木正久議長らが沖縄を訪れ、「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同決意表明」を発表するに至る。そこには沖縄で高まってきた、そして本土でも徐々に政治課題となっていた、いわゆる沖縄の本土返還を、教会として先取りしようとしたといえるかもしれない。いずれにせよ合同への準備は大急ぎで進められ、69年2月に「合同議定書」が交わされ、そして新しく日本基督教団の「沖縄教区」となった。
この時に双方ともに急がずにじっくりと両教会の煮詰めるべき課題を煮詰めていれば、今日までその問題を引きずらなかったのではないかもしれない。
教団は69年以後、大阪万博にキリスト教館の出展、70年安保条約改定をめぐって激しく議論が戦わされ、以後、長い時間が経過した。
 当時の日本基督教団は、20万の信徒、15教区、1700の教会。沖縄キリスト教団は、2000人の信徒、24の教会であった。両教会のサイズは全く違うが、しかしここでは「復帰」、「合併」、「再合同」ではなく、「合同」とされた。それぞれの独自の異なった歴史的背景をもった独立した教会、教団同士が合同した。この意味することは、われわれの教団は、2回の合同がある、ということだ。第1回目は1941年の宗教団体法による合同であり、第2回目が1969年の沖縄キリスト教団とのものである。

 7、
 しかし教団にとっても、沖縄にとっても、そのことの深く、重い、その拡がりと意味を十分に認識していなかったということが、その後、大体1978年ころから次第に認識されるようになり、そして「合同」から31年後、話題となってきた78年から見れば22年の間、教団で今日に至るまで論議が続けられてきた。それが今日、「合同のとらえなおし」の論議の始まりである。それは教会の「合同」といいながら、実はその実情や内容は、「復帰」、「合併」「再合同」、「復帰」だったのではないか、もともと九州教区沖縄支教区だったのだから、という本土の側の認識が、「合同」以来、変わろうとしない本土側の教会のあり方に対して沖縄側を、いわば「いらつかせ」て、そのことが現在にいたり、今日の教団の課題となっている。
 しばしばいわれてきたことは、沖縄側は常に本土によって変えさせられたが、本土側は「吸収」、「合併」、「加入」、「復帰」といって、何も変わらず、ただ一つの教区が増えただけの認識しかなかったではないか、ということだ。
教会の問題でいえば、具体的にいえば「沖縄キリスト教団」側は、登記の上で「沖縄キリスト教団○○教会」から「日本基督教団○○教会」に変えなければならなかった。新しく「合同した」教会なら、例えば京都教区の○○教会は、沖縄と合同して「何が変わったのか」という指摘だ。
 そもそも沖縄の本土復帰は、1972年に当時の佐藤首相の沖縄返還がなされなければ戦後は終わっていない、との主張によってなされた。個人的に何度も沖縄の人々と話してきたが、沖縄の人々が期待したのは、米軍統治の下から「日本国憲法」が適用されること、すなわち基本的人権の尊重、戦争放棄、主権在民、であり、そして、その意味するものは「核抜き本土なみ」、「基地のない沖縄」であった。しかし現実はまったくそうではなく、米軍基地は撤退せず、逆に自衛隊の駐屯が始まり、1995年の米兵の少女暴行事件のように実態は変わらず、返還以後、米軍用地の地代としてアメリカドルの下落のかわりに日本政府からの地代を含む補助金によってがんじがらめになった。また沖縄では本土復帰によって多くの地場産業は、本土資本の系列下に組み込まれるようになった。
 今振り返ってみると、本土への幻想が崩れていく過程で、沖縄の教会は、あの合同は何であったのか、その質は何なのか、大が小を飲み込んで自己肥大化を図ろうとするなら、それは企業の論理ではあっても、教会の論理ではないのではないかとの思いが高まっていったといえよう。福井達雨氏がよく説明する論理で「弁証法」的な表現がある。 AとBが一緒になった場合、大きなAになるのなら、それは力による論理であり、新しい何か、Cに生まれ変わるはずだ、というものだ。では本土の教区や教会、京都教区や私たちの教会は何が変わったのか、どのような教会になったのか、ということこそが問われている。
 ところが沖縄の本土返還の実態は、決してそのようなものではなかったことを我々は知っている。そして知っていながら本土の人々は、何かが変わったのか。すべての矛盾、お荷物は、みんな沖縄に押しつけてきているではないか、という思いを共有できるかどうか。それは、国家レベルにおける行政の問題として問われるばかりでなく、われわれは、なによりもキリストの主権に関わる問題として、主の体なる教会の存在とその内実の問題として、教団はどのような教会を形成しようとし、どのような事柄を信仰告白の内実としての宣教を考えていくのか、という、信仰の内実、宣教の中身と、その方向性が問われている。これがいわゆる「合同のとらえなおし」の課題なのだ。
 沖縄キリスト教団と日本基督教団との合同の後、本土側は沖縄教区の教会の牧師館建設資金として、当時のお金で100万ドル、3600万円募金を10年の間、続けた。
 この22年の間に続けられてきた「合同のとらえなおし」の論議は、激しくなされてきた。それは日本基督教団総会レベルで論議が始まったために、教区、そして教区内各教会の水準ではなかなか理解しがたいところもあった。しかしこれから述べるように、教団レベルのみならず、教区、そして各個教会にとっても、この議論は重要な内容を含んでいる。
 過去におびただしい文書が議論とともに出され、教団総会でも議案となってきた。それらを要約して整理すると、3つの点にまとめられるであろう。
 ひとつは具体的な提案であり、もうひとつはその具体的提案の背後にある教会、宣教、信仰の問題であり、そして最後はこの議論を教団政治の材料として受け止めようとする動きである。
 一つ目の具体的な提案は、合同の日(1969年2月25日)を創立記念日とする。「教憲」の前文や「教団成立の沿革」の加筆修正、さらに「教団信仰告白」を再検討する。教団名称を「日本キリスト教団」に変更し、同時に各個教会名称を「日本キリスト教団○○教会」に変更との案も出されたが、提案条件不備のために取り下げられた。その後沖縄教区から1996年、第30回総会に議案として出されたもので、名称変更について「日本基督教団」から「日本合同キリスト教会」に変えよう、というような議案が出された。これ以後の議論を受けて京都教区は、教団の名称変更を「合同」にふさわしいものとするように、との議案を提出したり、またこれに関連してその前提となる考え方だといえようが、前回の31回総会では大阪教区からの議案として「日本基督教団」が沖縄教区(沖縄キリスト教団)に謝罪する件」(継続審議)が出された。
 二つ目は、どうしてこのような論議が起こってきたか、というその背景の問題だ。その背景にある考え方を抜きにして、可決とか否決ということになれば、単なる数の論理であったり形式的な問題になってしまうからだ。実態と内実は一切変わらない、ということになる。つまりその考え方の背後にある、教会、宣教、信仰をどうとらえるか、われわれの教会は、そして信仰は何か、宣教とはどのような内実、内容も持つものなのか、ということに関連する。これまで話したように、沖縄の問題について、正確にわたしの言葉でいえば、沖縄に問題があったのではなく、本土の問題が、すなわち大なるものが内在している様々な課題、矛盾を、教会をふくむ沖縄に、すなわち小なるものに押しつけていくような、その論理、すなわちこの世の論理、政治、経済などに見られる論理と同一の方法で、教会の伝道がなされるのではなく、また国家の論理でなされるのでなく、教会は教会の論理で、その歩みを進めていこう、ということがあるからだ。聖書の言葉を引用すれば、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(コリントI、12:26)こととしてあるであろう。
 三つ目。これらの議論は一つ目ともからんでくるが、この議論を政治的な事柄として受け止める動きだ。前回の第31回総会では、総会議場で取り下げられたものの「日本基督教団の名称変更に際し教団所属各教会・伝道所の直接投票を行うことに関する件」が提案されたり、沖縄という小教区のことや小教会のことが言われるが、本土内の辺境の過疎の小教会についてはどうなのか、などという意見も出てきた。またこれらの議論を「特定のイデオロギー」に立ったもの(長山信夫牧師、銀座教会)だという発言、また「とらえなおしのとらえなおし」(長山信夫、銀座教会、「常議員会」1996年)をすべきだという主張もなされ、さらにこれに関連して第29回総会では、建議案として「名称変更について決議や決定をすることに反対する」というものが10名の名前で出てきたりもした。あるいはなぜ沖縄だけなのか、ということからこの論議に奄美の視点を加えるべきだとの建議もだされ、同じく名称変更を「沖縄・日本合同キリスト教会」とすべきだという建議も出された。また各個教会が名称変更をすれば、平均約22万円かかる、という報告もある。
 この動きをみれば具体的には「名称変更」ということが直接的な課題になるが、その背後には、さまざまな理解が錯綜して問いかけられていることがわかる。
 そして前総会で、伝道を一生懸命やらないといけない、教会の使命は伝道だ、ということで、これらの議論の展開ではなく、目をそらせるかのように「日本基督教団は21世紀に向けて伝道の使命に全力を注ぐ」決意表明(可決)をする、というような、問われている伝道の中身のことを横において、一応一般受けするような「伝道」ということさえいえばいい、というようなかたちで、いわば沖縄の呻きを聞いて、わたしはどうする、わたしの教会はどうする、ということから目をそらせるような動きもある。
 その背後には、なによりも教会は人間の魂の救いの問題にかかわるのであって、政治や社会の問題に関わるべきではない、という信仰理解があったり、たしかに沖縄の歴史に対して本土の教会は、間違いを犯してきたが、教会は神の支配するところだから、教会が間違いを犯したのではなく、間違ったのはその時代のクリスチャンであるという見解、日本基督教団がそもそも1941年に合同、成立したのは、神の摂理であって、宗教団体法によるものではない、それは日本のプロテスタント教会は明治以来、ひとつの教会を形成しようとしてきた動きがあるからだなどと、さまざまな議論があるからである。しかしその議論と沖縄の現実、そして歴史、そしてそこにある教会、その働き、闘い、ということについては、共に歩み、痛みと苦しみと課題と喜びを、ともに分かち合い担っていくという方向性ではなく、冷たい現実主義の議論というべきではないだろうか。また精神的に合同を模索していけばいいのだ、というような精神論で考えようという動きもある。
 一方、沖縄の中からは、宣教、伝道、信仰の内容を問わないでいこうとする、そのような教団であるならば、ふたたび分離して「沖縄キリスト教団」に復帰してはどうか、また沖縄から米軍基地がなくなるまで、「とらえなおし」は続けられなければならない、という声も聞いたことがある。

 8、
 現実は、本土は何も変わらずに沖縄に矛盾を押しつける姿勢が今も続いている。1995年の米兵による少女暴行事件から始まり、普天間基地移転の決定がなされ、そしてその候補地として本土(京都、滋賀ではなく)、名護市の辺野古があげられている。 沖縄の中でも、那覇は中央で名護は周辺であり、名護の中でも辺野古は、さらに周辺の地である。大から中、中から小に矛盾が凝縮していく。そして「大」、すなわち本土が本来抱えている問題や矛盾が、「小」のなかのほんの300軒あるかないかの辺野古の集落に、移転賛成、反対の対立が持ち込まれる。そこの嘉陽さんという区長さんは、今年1月自殺未遂をした。だれがそこにまで追いつめたかのか。その原因は、本土のわれわれに責任がある。その図式が見事に、本土、沖縄、那覇、名護、辺野古に現われる。
 それは一面、政治の問題であるが、わたしたち教会は、戦時下の教会の分断の歴史を見据えながら、教会の主権の問題として、信仰的決断の事柄として、そしてどのような教会を形成するか、という事柄の問題として認識すべきだ。
 昨年11月、同志社大学神学部の院生と一緒に沖縄を訪ねた。辺野古で一人のクリスチャン、賀陽さんに出会った。彼は「ジュゴンを守る会」の顧問で82才である。我々がクリスチャンであることを伝えると、祈ってくれと求められ、全員で涙を流して祈った。 同席した沖縄のクリスチャンは、沖縄の政治家を正しく選ぶことができなかった「罪」を告白し、祈り、許しを乞い、神が創造した自然と神が求める正義と平和が侵害されていこうとしていることに対して、神が助けてくれるようにと祈り、わたしは自分たち本土に住む人間として、その矛盾がこうしてこの辺野古に凝縮して現われていることについて、我々の「罪」を告白した。こうして涙を流して祈った。

 9、
 先に述べたように、22年前から論議が始まり今日に至るまで、沖縄との「合同のとらえなおし」の論議は、一人一人の、そして各教会、教区の理解のなかで、その差が明瞭になり、いわば教団政治の材料となっている。そして現実的には福音理解をめぐって、双方の陣営が激突しようとして、おそらく今秋の教団総会の最大の論議の中心になろう。
 今年3月、教団で宣教方策会議が開催された。これは教団総会が開かれる年にその総会の内容を、教区からの人々を交えて問題を分かち合うことが目的である。主催は教団宣教委員会である。宣教委員会の構成自体が現在の教団の状況を反映して、この問題でも議論を戦わせてきたようだ。
 わたしはその時になされた岩井健作牧師(神戸教会)の「基調報告」と、その場で発題された二人の報告から深い示唆を与えられた。一つはアイヌの人々と共に生きていこうとする教会の姿、そしていわゆる過疎地の教会同士で連帯して共同牧会を続けている北海教区の宮島利光牧師(滝川二の坂伝道諸)の報告であり、もう一つは四国教区で戦時中に治安維持法違反の故に教会として解散命令を受けた旧ホーリネス教会の伝統をもつ教会の八束潤一牧師(新居浜教会)からの報告である。
 岩井牧師の「基調報告」では、「参加者のそれぞれが、『言葉』、『概念』、『立場』、『信念』、『経験』にかなりの留保をつけつつ、なお互いの『個の尊厳』と『共存』を信じて(神学的には『教会を信じて』)『時』と『場』を共にすること」(6ページ)を強調された。その「とらえなおし」の質そのものを、合同教会としての日本基督教団の多様性と豊かさ、そして現在の時代と社会の状況のなかで、宣教の課題は何か、教会は何を求めていくのか、その具体的な切り口を見出して共に担っていこうという視点を提示されたように思う。そして二人の「発題」は、自分の立っている足場、教会が立てられている具体的な地域、また自分が属している教会の歴史を認識して、現在の教会の活動に繋げていかねばならない、ということであった。
 言葉を変えていえば「沖縄」に象徴されている問題と、その同質の問題は京都教区の中ではどうなのか、その応用問題として考えねばならないのではないだろうか。飛行機で2時間かけて沖縄に行かねばならないのではなく(行くこと、実際に体験することは大切だ)、私たちの足元の課題を担っていこうとするときに、「とらえなおし」の内容と方向がみえてくるのではないか、ということだと思う。
 そしてなによりも教会が「神の家族」とか、「救われたものの群」、「集められた者の群」というような、いわば聖書的な言葉で表現されてきたそのことの具体的な姿や形、地域、内容を抜きにして抽象的に教会が存在するのではなく、この時代の、この地域の、この人々とともに教会はある、という事柄として問われていることなのだといえるだろう。

京都教区総会 2000年5月3日